チアーズ!(Cheers!)

 イギリスで、今もっとも進んだ挨拶言葉、それは、「チアーズ!(Cheers!)」である。
 「チアーズ!」が使われるのは、例えば、次のような場面である。
 あなたが、公衆電話で電話をかけている。そこに、別の男が来て、外で待っているとしよう。やがてあなたは電話を終え、外に出る。その時に、あなたは、一瞬待っていた男のために公衆電話のドアを支えてあげたとしよう。そんな時、男は、「チアーズ!」と言うだろう。

 あるいは、あなたが、ワインショップで、時間をかけてゆっくりとパーティーに持っていくスパークリング・ワインを選んでいたとしよう。やがて、あなたはこれと決めたワインのボトルをカウンターに持って行く。それは、セールス品であり、値札が出ていたのだが、店員はその値段を忘れていたとしよう。
 店員「このワイン、5ポンド30ペンスだったかしら。」
 あなた(少し体を戻して、値札を見ながら)「いや、6ポンド70ペンスの方だと思うけど。」
 店員「そうだったかしら。チアーズ!」

 あるいは、
 「今何時ですか?」
 「12時40分です。」
 「ありがとう。チアーズ!」

 つまり、「チアーズ!」は、「ありがとう」と「さようなら」の間の、曖昧な領域に住んでいるような印象の言葉なのである。第三の例のように、「サンキュー」の後に、追い打ちをかけるように「チアーズ!」と言うことも多い。
 ところで、最近日本でも見られるようになった男性の「片耳」イヤリングは、イギリスでは若い男性の間にかなり浸透している。もともとなよなよとした男の多いイギリスでは、この「片耳イヤリング」は、ある種の男性にとてもよく似合う。そして、面白いことに、「チアーズ!」という挨拶言葉は、「片耳イヤリング」をしているような若い男性によって使われることが多いように思われる。
 何れにせよ、「チアーズ!」は、まだ確立した挨拶言葉ではない。アメリカ英語に比べると、イギリス英語は、何かを頼むときには必ず「プリーズ」を付ける点など、依然として丁寧である。そのような英語の用法の感覚から言うと、「チアーズ!」は、「合法的」なようで、「合法的でない」、すれすれのところにあるように思われる。「チアーズ!」は、そのような危うい雰囲気の言葉なのである。


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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)