凍結する英国

 イギリス(England)の冬の気候は、基本的にマイルドである。雪が降ることも、年に数える程しかない。
 しかし、時には、イギリス中が寒さに震えることがある。それは、東風が吹くときである。
 日本の感覚でいうと、冬の季節風は、北西から吹くものと決っている。しかし、イギリスでは、冬の季節風は、あくまでも東から吹くのである。
 東風は、とても冷たく、体感気温を零下に下げる。東風が吹き始めると、イギリス人は決ってこのようにつぶやくことになっている。
「シベリアからの風が吹き始めた」! もちろん、この場合の「シベリア」という言葉の持つニュアンスは、良いものではない。ここには、イギリス人の典型的な考え方の一つが表れている。すなわち、イギリス自体はマイルドな、「中庸」の国であり、何か極端なこと(特に何か悪いこと!)が起こったら、それは「外国」のせいなのである!
 逆に、西風が吹いている限り、イギリスの冬はマイルドである。夕刻に西の空を見て、雲が自分の方に向かって流れてきているようであったら、明日も、おそらくマイルドな「イギリスの冬」を迎えることができるだろう。従って、イギリス人に仏教を布教するのは簡単なはずである。何故ならば、彼らは、「西の方角に良いものがある」という教義を、全くもっともなこととして自然に受け入れるだろうからである!

 英国に滞在して印象的なことの一つは、冬でも芝生が緑であるということである。
 冬の朝など、芝の上に白い霜がびっしりと着いていることがよくある。時には、霜は一日中溶けない(どうせ、昼になっても太陽など出はしないのだ)。それにもかかわらず、芝生は、いつも緑なのである。
 芝生に限らず、牛や馬が放牧される牧草地も、真冬でも緑のままである。これは、一体、どういうことなのだろうか?
 イギリスの草地が一年中緑であるという現象には、大きく分けて三つの説明があることが知られている。
 第一の説明は、イギリスの気候は、もともと冬でも適当な湿気があって、気温もそれほど低下することなく、マイルドなものだからというものである。
 第二の説明は、イギリスに今日生えている草は、冬でも緑のままでいるような種が、人為的に選択された結果であるというものである。つまり、イギリスにおける今日の植生は、自然淘汰による進化の結果ではなく、人為的な介入の結果であるというわけである。実際、イギリスの土地で人の手が入っていないところは殆どないのであって、この説は、もっともだと思わせるところがある。
 第三の、最も非科学的な、そして「イギリス生活の達人」の好む説明は、イギリスの草は、イギリス人と同じくらい鈍感だから、寒くても冬が来たと気がつかないで、青々とした葉を広げ続けるというものである!
 
 このように、冬でも草が青々としているという恵まれた自然環境にあるので、イギリスは、庭作り(Gardening)を楽しむには適した国である。実際、イギリス人は、庭作りにはかなりのエネルギーを傾ける国民である。
 私が、イギリス人の庭作りのテクニックの中でも最も感心したのが、「冬の庭」(Winter Garden)である。
 私が「冬の庭」という庭の植物のアレンジメントの存在を知ったのは、ケンブリッジの街外れにある、大学植物園(University Botanical Garden)を散歩しているときであった。グランチェスター・メドーという牧草地からてらてらと歩き、ケム川に架かる橋を渡って、大学植物園の裏口から入るのが私のいつもの散歩コースだった。水鳥のいる池をかすめ、軽食などを売っている小屋を過ぎると、まず、「香の庭」(Scented Garden)というセクションを通る。「香の庭」に集められているのは、花や葉、あるいは茎など、植物の部分のどこかが、香を発する植物である。そして、「香の庭」の隣にあったのが、「冬の庭」であった。 
 「冬の庭」という名称からは、例えば、冬に花を咲かせる植物や、あるいは、冬でも緑の常緑樹などが想像される。ところが、「冬の庭」に植えられているのは、必ずしも、冬でも元気の良い植物ばかりではない。中には、すっかり枯れてしまっているものさえある。しかし、「冬の庭」に植えられている植物には、一つの共通の特徴があるのである。それは、非常にカラフルであるということである。つまり、「冬の庭」に植えられる植物は、冬になって葉だけになっても、あるいは、葉さえ落ちて、枝や茎だけになっても、これらの植物の部分自体が「色」を持っているようなものが選ばれているのである。悪く言えば、植物の「死骸」の色を利用しているのだ。これは、ちょっとブラックで、見事な「逆転の発想」であるとしか言いようがない。
 イギリスで人気のある、某「園芸大百科事典」には、「冬の庭」について、次のように記載されている。
 「冬の庭は、殺風景で、味わいのないものと思われがちです。しかし、よく見ると、枯れた草の茎や、葉を落した木の幹の中には、はっとするほど見事な色のものがあります。冬の庭を楽しむこつの一つは、これらの色をうまくコーディネイトすることです。葉を落した茎の骸骨(skeleton)が、冬の空に突き出している光景もまた良いものです。例えば、枯れたドッグウッドの茎は・・・。」
 「園芸百科事典」が認めているように、「冬の庭」は、色付の骸骨でできた植物の墓場のようなものである。もちろん、冬枯れの風景を見て、その風情を楽しむという美意識は日本にもある。しかし、それをシステマティックな方法にまで高めてしまうというところに、私はいかにもイギリス人らしいものを感じるのである。

 イギリスでは、冬枯れの中に咲く花を見かけることが珍しくない。
 その代表的なものは、薔薇である。ロンドンで言えば、リージェント・パーク(Regent's Park)の中のクィーン・メアリー庭園(Queen Mary's Garden)が薔薇の名所である。ここは、季節(初夏)に訪れると、色とりどりの薔薇の花が、美しく咲いている。あたりは、薔薇の匂でむせかえるようである。しかし、季節はずれでも、クィーン・メアリー庭園には、薔薇の花が絶えることがない。もともと、薔薇は、一年中花を咲かせるものらしい。しかし、冬でも温暖なイギリスの気候は、そのような薔薇の潜在能力を、最大限に引き出しているように思われる。
 薔薇だけではない。真冬でも、あちらこちらにちらちらと花が残っていることが珍しくない。葉が落ちて、てっきり枯木だと思っていると、ぽつぽつと小さな白い花が残っていたりするものである。特に印象的なのが、日本の桜に似た、白い可憐な花である。この花は、ケンブリッジのカレッジのあちらこちらに咲いていて、イギリスという国が、樺太程度の緯度にありながら、北大西洋海流という暖流の存在のおかげで冬でも温暖であるという幸運に恵まれていることを思い起こさせてくれるのである。

 私の中のイギリスという国のイメージとして、「美しく凍結する国」というものがある。すなわち、生命を特徴付ける生き生きしたもの、予想がつかないもの、あるいはどろどろしたものを徐々に振り落としていった時、ゆっくりと凍結していくものーそのようなエッセンスを大切にする国が、イギリスという国であるというイメージがあるのである。

 イギリスにおいては、やや年配の女性の方に、「チャーミング」な女性が多いように思われる。ここで、「チャーミング」という言葉には、独特の響きがあり、要するに、普通の男性からみたら異性としての興味の対象には必ずしもならないかもしれないけれども、一つの「視覚的オブジェ」として、とても魅力的であるということを指すのである。言い方を変えれば、イギリスにおいては、女性は最良の場合「ドライフラワー」のように美しく歳をとるということになるのかもしれない。
 もっとも、イギリスには高齢の女性を特に愛する若者がいるらしい。最近爆発的人気のコメディ『リトル・ブリテン』の中には、若い女には目もくれず、お婆さんばかりに色目を使う青年が出てくる。
 このような女性の「ドライフラワー化現象」は、より一般的に、イギリスにおける「老い」の高い価値に結び付けられる。日本では、一般に年齢が若ければ若いほど人間の「価値」が高い。それに対して、イギリスでは、一般に年齢が高ければ高いほど人間の価値が高いのである。イギリスでは、「老人」こそが最高の人間存在の形態である。従って、イギリスでは、人々は、急いで老人になろうとする。イギリス人は、老い急ぐのだ。イギリス人は、未完成の若々しさよりも、美しく凍結した老年を愛するのである。


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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)