英国の食事はそんなにまずいか

 ある国のことを紹介するときに、その例外から紹介するのは極めて効果的なことである。何故ならば、多くの場合、一般原則よりも、例外的事例の方が、その国を理解する上で示唆的だからである。従って、私は、イギリスの食べ物はおいしいという例外の話から始めることにする!
 イギリスにおいて、おいしい食べ物に出会うというのは、非常に印象的で、記憶に残る経験である。しばしば、そのような経験は、何年か経った後もしみじみと思い出される貴重なものとなる。そのような貴重な経験がそう頻繁には起こらないということが、万が一そのようなことが起こったときの感激と、印象の深さをより顕著なものにするのである。これこそ、後に触れる「英国生活におけるコントラスト効果」に他ならない。
 人間の脳の中の、何か嬉しいことがあると活動する「報酬系」は、メリハリの効いたシグナルに対して最も大きく反応する。イギリス人は、ふだんはまずい食事をすることによって、いざおいしい食べものをとった時に脳が喜ぶ、その効果を最大化しようとしているのだろうか? 
 もっとも、まずいものばかり食べていると、おいしいものがどんなものであるか学習することができず、いざおいしいものを食べても不感症になってしまうリスクもある。イギリスではそのリスクが現実化している、という意見もあるだろうが、それでも、時には「これは何だ?」と驚くほどのおいしいものに出会うことがあることも事実なのである。
 まず、私が今までに遭遇したイギリス料理の中で印象に残っているものは、イングランド南部の小さな村で食べた「魚のスープ(Fish Soup)」である。この、非常に素朴な名前が付けられたスープは、一緒に食べた「舌びらめ」(Dover Sole、一般にイギリスを代表する味覚の一つと言われている)よりも、遥かにおいしかった。まず驚かされたのは、それが非常に塩辛く、滋養に富んでいたということである。どうやら、魚の内臓などを含めてたっぷりだしがとってあるらしく、口に含んでいる時間が長ければ長いほど、じわじわと旨みが感じられてくるのである。それは、ちょうど日本の傑作料理「塩辛」をスープにしたような旨さであった。
 もう一つ印象に残っているのは、小さな村のパブで食べた「にんにくバターきのこ」である。これは、ビールの摘みにと思って、全く気軽な感じで頼んだのであるが、出てきたものを一口食べた途端、思わず「わっ!」と叫んでしまったほどの旨さであった。別に料理自体は凝ったものではなく、単に「にんにくバター」でいためただけであるから、おいしさは、明らかに、材料のきのこの中にあったわけである。その肝心のきのこは、見たこともないような妙な形をした数種類のきのこのブレンドであって、その一つ一つが、何とも言えない野趣の魅力に溢れていた。これらのきのこは、栽培されたものではなく、どこかその辺りの森の中からでも採ってきたもののように思われた。
 残念なのは、イギリスにおいては上のような瞠目すべき味わいの料理が一般化しないということである。上の二つの料理に共通しているのは、まず、それがあまり洗練されているとは言えない「田舎料理」であるということである。また、材料が新鮮なものでなければならないから、何時でもどこでも作れるというわけにはいかない。そして、このような例外的な状況をうまく利用するほど、イギリス人は器用でもないし、またそれほどの料理に対する情熱を持っていないのである。
 イギリスにおいては、もともと「田舎料理」として始まったメニューが次第に人気を得て、メジャーな料理への階段を一歩一歩昇っていくというような、「田舎料理の出世コース」が存在しないのかもしれない。ここには、この国のメンタリティーに関する、非常に深い真実が隠されているような気がする。

 結論を言えば、イギリスの食事は、やはりまずい。これは、イギリス人の使う食材が悪いというよりも、もっぱら、料理の仕方によると思われる。というよりも、大抵のイギリスの食事は、日本料理やフランス料理の感覚からすれば、殆ど、料理という名に値することはしていないといってもよい。しかも、料理に使う食材は、非常に限られている。イギリス人は、あまり、食材に関して、想像力豊かであるとはいえない。少なくとも、「動くものは何でも食べる」といわれる中国人や、蝸牛や腐ったチーズまで食べるフランス人に比べると、その料理の材料は、とてもバラエティに富んでいるとはいえない。すなわち、素材をあまり加工しないで食べる、しかも、特定の素材をモノマニアックに食べるというところに、イギリス料理の悪評の主因がある。
 イギリスのある新聞の週末版には、子供用に特別に編集された「子供新聞」が折り込まれている。この「子供新聞」に、十歳の子の次のような投書が載っていて、大いに笑ったことがある。
 「大人たちは、僕たちに栄養のあるものをとりなさい、新鮮で、ビタミンが沢山あるものを食べなさいと言います。しかし、僕たちがレストランに入って目にするメニューは何でしょう。魚とチップス、ハンバーガーとチップス、ソーセージとチップス、・・・。うんざりです! もっと、新鮮で、栄養のあるメニューを考えて欲しいと思います。」
 上の投書に言う「チップス」とは、言うまでもなくイギリス人の主食であるじゃがいもを油で揚げたものである。この子が、チップスにうんざりしているのも無理はない。イギリス人は、実にチップス、すなわちじゃがいもをよく食べるのである。
 そのじゃがいもをどのように食べるかというと、まず、一番接する機会の多いのが、いわゆるフレンチ・フライである。フレンチ・フライは、マクドナルドやバーガー・キングなどのファーストフード・チェーンを通して世界的に有名になったが、そうなる前から、イギリスのパブや、レストランで、あらゆる料理に欠かせない添え野菜として、ひそかに日の目を見るのを待っていたのである。次によく見かけるのが、スライスされ、ソテーされたじゃがいもである。こちらの方は、フレンチ・フライより味も良く、少し品がある気がする。その他にも、マッシュト・ポテトや、まるごとゆでたポテトなどがある。しかし、何れにせよ、これらのじゃがいもが、料理の添え野菜、言わば、脇役であることには変わりがない。
 しかし、時には、じゃがいもが主役の座に踊り出ることがある。すなわち、それはジャケット・ポテトという「料理」である。これは、皮つきのポテトをざくっと真ん中で割って、その中に豆や、挽肉や、にんにくきのこといった様々な詰物(filling)をしたものである。こうなれば、もはやじゃがいももれっきとしたメインディッシュであって、ジャケットポテトにコーヒーを付ければ立派な昼食になるのである。
 何れにせよ、平均的イギリス人は、その生涯にわたって大量のじゃがいもを食べ続ける。(もし、じゃがいもアレルギーのイギリス人がいたとしたら、その人のイギリスにおける生活は非常に惨めなものになるだろう。)従って、将来においてあなたがイギリス人を見る機会があったとしたら、彼らの体の3分の1はじゃがいもであると思って間違いない。言い替えれば、イギリス人は、「イモねえちゃん」や、「イモにいちゃん」の集まりだと言うことになるのである。

 英国の食べ物については、様々なジョークが知られている。例えば、「イギリス人は羊を二度殺す。一度目は、それを屠殺するときであり、二度目は、それを料理するときである」など。このジョークに関する最も遺憾なことは、残念ながらそれが真実であるということである。
 イギリスの食事に関して知られているジョークをもう一つ挙げれば、
 問「イギリスからフランスへ向かうフェリーが出航する港の近くでは、何故交通事故が多いか?」
 答「トラックの運転手が、一刻も早くイギリスを抜け出して、フランス側で食事をとろうと、猛スピードで走るから」
 というものがある。
 イギリスとフランスを結ぶ海峡トンネルが完成した後では、このジョークは、一種のノスタルジアとともに思い出されることとなった。
 確かに、イギリス人は食事にあまり情熱を注ぎ込まない国民である。他の全ての感覚的歓びと同じように、食事という感覚的歓びに必要以上の情熱を注ぎ込むことは、イギリス人の視点からすると、血の気の多すぎる「外国人」のすることなのである。 
 このことに関連して、英国の食事のカテゴリーには、「料理された」(cooked )というものがあることを知っておいた方がよいだろう。ここで、「料理された」とは、基本的に火を使って煮たり、焼いたりすることを指す。そして、イギリス人にとっては、「料理された」食事は、一種のぜいたくであり、それを一日三度もとることは、明らかに「行きすぎ」なのである。
 これは、隣国のフランス人にとってはもちろん、我々日本人にとっても、理解し難い考え方である。そもそも、「料理されない」食事というものが、存在し得るのであろうか。朝から、「料理された」食事である味噌汁を飲むことをいわば当然と思っている日本人にとって、上のような料理のカテゴリーを考えること自体、不思議なことである。
 大抵のイギリス人は、一日に一回「料理された」食事をとれば充分であると考えている。従って、学校で「料理された」給食(スクール・ディナー)を受ける子供たちは、家に帰ってからは、夕食で「料理された」食事をとる必要はないのである!
 もちろん、「栄養学」的に言えば、イギリス人の食事は、充分なのかも知れない。あるいは、今日の「飽食」の時代においては、フランス人の食事に比べて、健康的であるとさえ言えるのかも知れない。
しかし、そもそも、栄養学というのは、恐るべき発想である。栄養学の発想の根本は、食べ物というものは、どんな風に料理されていたとしても、どんな味がしたとしても、胃に入ってしまえば同じというものである。 従って、胃の中に入ってしまえば同じことなのだから、あなたは、味などを気にしてはいけないのである。このような発想を信じられるというところから、イギリス的な経験主義の科学は始まったし、イギリス的なビジネスの倫理も始まったのである。
 このようなイギリス的な料理へのアプローチを、少しでもファッショナブルに聞こえるように言うとすれば、「ミニマリズム」(最小主義)にでもなるだろうか。「ミニマリズム」をもし徹底して、「あれこれと「料理」することは邪道である。一番いいのは、素材の味を生かすことだ」という哲学に達することができれば、イギリス人は、日本の懐石料理のような素晴らしい味の芸術を、自ら生み出していたかも知れないのである。ところが、残念なことに、イギリスの食事における「ミニマリズム」は、あくまでも現実的で、そしてどちらかと言えば「情けない」ものなのである。ここにも、現実的なバランスを重視する余り、「徹する」ことに躊躇することで多くを失ってしまうという、かの国の大多数の住民が持つイギリス的性格がよく表れている!
 イギリスの食事における「ミニマリズム」がいかに現実的な、そしてしばしば情けないものであるかは、アメリカで発生したファースト・フードという非文化的な食事形態が、イギリスでは(多くの子供たちはもちろん、その親にとっても)ほとんど福音にさえ思われることでも分かるであろう!



英国生活の達人.png


(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)