敗北したケンブリッジの男

 ところで、ケンブリッジという大学街に「敗北したケンブリッジの男」(Defeated Cambridge Male)というカテゴリーの人間が棲息しているということを、私はニュージーランド人の遊び人のポス・ドク(博士号をとったあとに、さらに修業を積んでいる研究者)からはじめて聞いた。
 ケンブリッジ大学に入学すること自体は、もちろん、「敗北」であるはずがない。彼らは、「Aレベル」の試験や、「面接」や、そして何よりもケンブリッジ大学を管理する特権階級の持つ様々な偏見という障害を乗り越えて、四年間ケンブリッジという湿地帯の街で暮らす特権を得た「勝利者」である。彼らが「敗北したケンブリッジの男」というのは、一見、実にパラドキシカルなことのように思われる。
 しかし、実際には、それほど首を傾げるようなことが起こっているわけではない。彼らが敗北したのは、しばしば勉強よりも難しくて複雑な人生のゲーム、すなわち、いかにガール・フレンドを得るかというゲームにおいてなのである。そういうことならば、日本にも、「敗北した某大学の男」が、ぞろぞろいそうではないか!
 何れにせよ、「敗北したケンブリッジの男」の生活は淋しい。彼らはアパートに一人で住み、淡々と学問をしている。彼らは、もはやガール・フレンドを得ようと、努力することもない。それどころか、女の子に出会うような、社交的機会に接することすら避けてしまう。そして、やがて、ガール・フレンドとデートするとか、楽しい社交的機会を持つということ自体を軽蔑し、見下すようになる。こうなると、人間もお仕舞いである。彼らは、結局、学問においても大したことができずに、単に「ケンブリッジ」という場所の名声に守られて生きていくことになるのである。
 結論すれば、「敗北したケンブリッジの男」は、勉強というルールの決ったゲームに勝っても、良き伴侶を得るという人生において最も重要なゲームーそして、そのルールは「勉強」のルールより微妙で、経験を要するーに負けたのだ。彼らが、「敗北した男」であるのは、まさに、猫の目のように気まぐれな「反対側の性」をめぐるゲームに負けたせいなのである。
 似たようなケースとして、「敗北したイギリス人の男」というのもあるようである。友人の説によると、「敗北したイギリス人の男」は、イギリス人の女性に対しては自然に振舞うことができない。「敗北したイギリス人の男」が自然に振舞うことができるのは、外国人の、しかも、英語が不自由な女性に対してだけなのである。このような現象が、どのような心理学的要因に基づいているのかは、私の知るところではない。

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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)