愛すべきB教授

 私のお世話になったB教授も、典型的な「妙な」教授(いわゆるAbsent-minded Professor)であった。B教授は、進化論を提唱したチャールズ・ダーウィンや、陶磁器のウェッジウッドの創業者の家系に連なる、名門中の名門の出であるが、そのだぶだぶのズボンを引きずって歩く姿からは、そのような高貴なるものの予感は伝わってこない。
 B教授の癖の一つは、ポケットの中に手を突っ込んで、中のコインをじゃらじゃらさせることである。(この点に関して、私はイギリスの男性でいわゆる「小銭入れ」を持っている人を見たことがない。小銭というものは、無造作にポケットの中に放りこまれるべきものと決っているようである。従って、B教授に限らず、イギリス人のいわゆる「紳士」の中で、ポケットの中でコインをじゃらじゃらさせている人は意外に多い)
 B教授を初めとするイギリス人の「紳士」の振舞として大変おもしろいのは、お茶の時間にチョコレートやビスケットなどの甘いものを好んで食べることである。ノーベル医学生理学賞を受賞し、その分野では神様のように思われているH教授も、お茶の時間にさもおいしそうにチョコレートを食べる様子が目撃されている。中年以降の「紳士」が、喜々としてチョコレートを食べるという習慣は、間違いなく「典型的にイギリス的」なことのひとつである。
 このような振舞にも関わらず、彼らは、あくまでも英国「紳士」なのである。英国紳士は、パラドックスに満ちた存在なのだ。このようなパラドックスは大変知的興味を惹くし、またある種の奥深さを感じさせる。確かに、「紳士」という行動規範は、イギリスにおいて最も魅惑的な謎の一つである。言い替えれば、イギリス紳士は、いかにエレガントに成熟し、しかも子供っぽさをを残すかという極めて困難な演劇的課題を解決しなければならないのである。この点に関して、彼らがいかに見事な役者であるかということに関しては、感嘆するしかない。
 結論。イギリスでは、紳士はある点においては子供であり、しかも大人である。

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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)