トラブルは起こるのが当たり前

 

 「爆弾騒ぎ」に限らず、イギリス人が、危機的状況に強いことは有名である。彼らは、どんなにひどい事態になったとしても、大抵の場合驚かない。

 第二次世界大戦中に、爆撃を受けて大きな穴が空いたロンドンの店の主人が、「普段よりさらに開店中(More Open Than Usual)」という看板を出したというエピソードは余りにも有名である。このようなエピソードに見られる、イギリス人の危機的状況に対する冷静沈着ぶりには、「イギリスは大人の国である」というよく聞く賞賛を通り越して、ほとんど病的なものすら感じる。何事が起きても驚かないというイギリス人の精神構造は、英国生活の達人が是非とも理解しておかなければならない謎の一つである。

 私の見るところ、イギリス人が危機に強いのには二つの理由がある。

 第一の理由は、イギリス人は、危機的状況に対してだけでなく、あらゆることに対して感覚的に鈍感であるということである。大切なことは、このことは、必ずしも論理的に鈍感であるということを意味しないということだ。

 第二の理由は、イギリス人は、常に最悪の事態を予想して、それに対する心の準備をするという「危機管理の鉄則」を身につけているということである。このことこそ、イギリス人の賞賛すべき特質の一つであって、彼らがユーモアのセンスを以て危機的状況に接することができるのも、実にこのためなのである。

 以上の点を頭に入れておけば、あなたがイギリスで次のような目に会ったとしても、大して驚かないだろう。

 あなたが、イギリスの鉄道に乗っていたとする。途中駅で、何故か電車がしばらく止まっている。何故だろうと思いながらも、あなたは何となくただ止まっているのだろうと思っている。そう言えば、InterCity(急行列車の一種)も通過して行ったことだし、単なる通過待ちなのだと納得する。ところが、5分くらい経つと、次のようなアナウンスがあるだろう。「この列車は、電気系統のトラブルにより、この駅で運転を取り止めることになりました。なお、代替輸送をバスで行います。」そして、乗客たちは、まるでその放送があらかじめ予定されていたかのように、一言も言わず黙って荷物をまとめると、列車の外に歩き出すだろう。唖然としているあなたを残して。

 この場合、あなたが理解できないのは次のことである。列車は、この駅に着くまでは、何のトラブルもなく普通に走っているように見えた。それが、何故急に「電気系統」にトラブルが起こったのか? もっと理解できないのは、電気系統にトラブルが発生して、この駅で運転を取り止めるということを決定するのに、たった5分しかかからないということである。これでは、あらかじめそう決っていたようではないか。

 だが、真に驚くべきことはまだこれからである。あなたが、まるで最初からそのように決まっていたかのように整然と駅の外へ歩くイギリス人たちの後について、駅舎の外に出たとしよう。すると、大抵の場合、もうそこには、代替輸送用のバスが待機しているのである! そして、乗客たちは、あたかも最初からそのように決っていたかのように、整然とバスに乗り込んでいくだろう。唖然としているあなたを残して! 

 このようなエピソードに典型的に表れているイギリス人の考え方は次のようなものである。すなわち、トラブルというものは、ある確率で起こるに決っている。従って、トラブルが起こることを完全に防ごうとするよりも、トラブルが起こることは、あらかじめ前提にして、その対策を立てておいた方がよいというわけである。

 この点、今までで一番興味深かった経験は、東京からロンドンへの飛行で預けた私のトランクが、何故かホノルルに行ってしまった時のことである。呆然としている私に、英国航空の係員は落ち着き払って次のように言ったものである。不幸なことにあなたの荷物はホノルルに行ってしまったようである。ところで、今、ホノルル空港には、次のタイプの持主不明の荷物が存在するが、あなたの荷物はどれかに該当するか? そう言いながら、その係員は、コンピュータの上に表示された、荷物の特徴(色、形、大きさ、材質)を細かく記述したリストを見せたものである。私は、その用意の良さに脱帽するとともに、何故、そのような気遣いを、荷物がホノルルに行ってしまうことを防ぐために使わないのかと内心思ったものである。

 上のようなイギリス人の考え方は、トラブルが起こることはそもそも許されざるべきことであり、トラブルは絶対にあってはならないとする日本人の考え方と極めて対照的である。日本では、確かにトラブルそのものの起こる頻度は少ないだろうが、トラブルがいったん起こってしまうと、そんなことは想定していないだけに、パニックに陥る可能性がある。一方、イギリスでは、トラブルが起こるのは比較的頻繁ではあるが、トラブルが起こっても、最初からそれを想定しているので、パニックに陥る可能性は少ない。社会の在り方としてどちらが望ましいかは、なかなか判断が難しいところである。

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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)