イギリスの「チューブ」現象

 ロンドンの地下鉄は、正式には「アンダーグラウンド(underground)」と呼ばれるが、人々は、皆、「チューブ(tube)」と呼んでいる。何故、ロンドンの地下鉄が「チューブ」と呼ばれるのかは、一度乗ってみればすぐに明らかになることである。もちろん、「チューブ」という名称は、地下鉄の車両が通るトンネルの形状からきているのだけれども、そのトンネルの半径といい、その中を通る列車の大きさといい、日本の地下鉄の常識からすれば異常なほど「小さい」のである。
 それがどのくらい小さいかというと、列車のドアをぐるりと円周状に曲げて作らなければならないほど小さいのである。従って、ドアのそばに立つと、ドアは、頭のあたりをかすめて閉まることになる。「閉まるドアにご注意」というと、日本では、手やバッグを挟まれないように注意しろという意味になるが、ロンドンでは、なんと、頭を挟まれないように注意しろという意味になるのである!
 もちろん、ロンドンの地下鉄が建設された当時の技術水準からすれば、この程度のトンネルを掘るだけでも大変な作業であったのだろうと思われるが、それにしても、ロンドンの地下鉄の半径の小ささには驚かされる。まさに、ロンドンの地下鉄は、「アンダーグラウンド」というような「大げさな」名前で呼ばれるよりは、「チューブ」という可愛らしい名前で呼ばれる方がふさわしいと言えるだろう。
 ところで、イギリスでは、いろいろなもののサイズが、思いがけなく小さいことがある。私は、これをイギリスにおける「チューブ」現象と呼んでいる。
 例えば、イギリスの鉄道の座席の間隔は、時には我々日本人にとってさえ狭いのではないかと思われるくらい狭いことがある。足を伸ばして座るどころか、大柄のイギリス人だったら、膝が前の座席につかえるのではないかと思われることがある。
 イギリスの「国民重要有形文化財」であるパブでも、イギリス人は、真ん中に広々とした空間が空いてるのに、わざわざ隅の方の小さなテーブルに、椅子をいっぱい並べて座ることを好むように思われる。この現象は、特に、「常連」と呼ばれるような人々ほど顕著である。
 ポテトチップスも、何故か小さな袋に入って売られている。ポテトチップスに限らず、イギリスでは、いわゆる「スナック」類は、日本で言えば「ベビースターラーメン」程の、小さなパッケージに詰められて売られている。この現象は、実に興味深い、詳細に検討すべき社会経済学的問題であると思われる。一説には、パブでスナックとして売るのに適した大きさがこの大きさなのであると言われているが、定かではない。(この点に限らず、イギリスでは、パブが文化の様々な側面における「標準」を形成しているふしがある。)
 イギリスにおける「チューブ現象」の極め付けは、バッキンガム宮殿である。イギリスにおける最高の名家の女主人が、どんなに小さな敷地に住んでいるかということは、殆どショッキングなほどである。しかも、「家」の周りにあまり余裕のスペースがないため、公共の道路から「家」への距離が余りにも短い。皇居のお堀のような「クッション」がない。これでは、別に忍者セットを用意しなくても、誰でもたやすく侵入できると思えるほどである。(1993年の夏にバッキンガム宮殿が一般に解放されたとき、イギリスの新聞は「バッキンガム宮殿がすでに数年前から事実上一般に解放されていたのは周知の事実であるが」という皮肉っぽい注をつけていた。)
 このように、イギリスに溢れる「チューブ現象」は、イギリスが思いのほか「かわいらしい」国であることを意味している。英文学の名作である「ガリバー旅行記」に出てくる「リリパットの国」とは、意外にイギリス自身のことかも知れない。

英国生活の達人.png


(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)