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    第七章 サマーキャンプ

 クリスの部屋で徹夜でジムの両親の記録を探した次の月曜日、ジムとジャッキーは眠い眼をこすりながら学校に行った。一方、クリスは休みだった。翌日学校にやってきたクリスはジムにすまなさそうに言った。
 「ごめんな、ジム。ぼくがあんなことを言い出したものだから、かえってまずい感じになってしまって。あれから少し一人で探してみたんだけど、やっぱりダメだったよ。」
 ジムは、全然気にしていないというように言った。
 「いいんだよ、クリス。もともとダメなことはわかっていたんだから。それに、今は、アイリーンの家がぼくの家みたいなものだしね。」
  ジムは、アイリーンの家に帰って自分の部屋で一人になると、自然に眼から涙が出てきて止まらなかったのだが、そのことは、もちろん話さなかった。
 それから一週間がたった。ローズタウンは毎日晴れた日が続いていて、初夏の日差しが日増しに強くなってきた。学校も、あと夏休みまで二週間を残すだけとなった。
 アイリーンがローズタウン水族館の「サマー・キャンプ」の話をしたのは、そんなある日の夕食のことだった。「サマー・キャンプ」は毎年水族館で行われている、子供たち向けの海洋教室で、一週間水族館に泊まりながら、いろいろな授業や実習を受けるのだった。今年のテーマは「鯨」ということで、アイリーンが担当することになったのだ。
 「最後の三日間は、太平洋を船で航海して鯨を見に行くのよ。すごいでしょう。ジムやジャッキーも参加するといいわ。」
 ジムは、今まで船に乗って「航海」したことがなかった。それに、海で実際に鯨を見るなんて、そんなことができるとは思っていなかったので内心ひどくわくわくした。けれども、アイリーンやジャッキーの前では、
 「まあ、行ってみようかな。」
というような顔をしていた。
 ジャッキーは、
 「リックもサマー・キャンプに行くと学校で言っていた。」
と言って、最初は行くのを嫌がった。しかし、アイリーンが強く勧めるのでしぶしぶ参加することにした。
 学校も夏休みまであと一週間を残すだけとなったある日曜日、アイリーンはジムとジャッキーをジョージおじさんの農園に連れて行った。ちょうどバラがきれいに咲く頃だったし、アイリーンとチャールズの結婚が秋に決まったので、その報告に行ったのだ。
 「そうすると、ジャッキーにはお父さんができるというわけじゃな。」
 ジョージおじさんはちょうどバラの手入れをしていて、ひざに泥がついた作業着姿で笑った。ジョージおじさんの後ろでは赤や黄色や紫のバラが可憐に花を開いていた。空気は、甘いバラの香りでむせかえるようだ。
 「いやだわ。ジョージおじさんたら。それに、私だけじゃなくて、ジムにとってもお父さんになるのよ。」
 ジャッキーはバラの花に顔を近づけて香りをかぎながら言った。ジョージおじさんは黙って、ジムにジャッキー、それにアイリーンをかわるがわる見ながら笑っている。
 「きっと、チャールズと四人で、いい家族になるじゃろうね。」
 しばらくたってまたそんなことを言ったジョージおじさんを、ジャッキーは、にらみつけた。
 「もう、年寄りはそんなことばかり言うから嫌いだわ。」
 ワハハハハとジョージおじさんは笑い、ジャッキーも笑った。二人の笑い声は一緒になって、眼にしみるように青い初夏の空へと抜けて行った。
 「ジョージおじさん、あの空くらい青いバラを作るんだろう。」
  ジムはジョージおじさんが土を掘り返すのを手伝いながら聞いた。 
 「ぼく、将来は飛行船のパイロットになるんだ。そしたら、飛行船に「青いバラ」って名前をつけるよ。」
 ジョージおじさんは、それを聞いて、ジムに向かってウィンクした。
  「さあ、そろそろお茶にしようか。」
 ジョージおじさんは作業着に着いた土を払いながら言った。

 夏休みになった。ローズタウン水族館の、サマー・キャンプが始まった。今年のテーマは「鯨」で、アイリーンが担当者だ。アイリーンと水族館のスタッフ、それに五十人くらいの子供たちが、まず四日間水族館の敷地でテントを張ってキャンプをする。といっても、食事は水族館の食堂で食べられるので、テントは寝るだけに使う。そして、その後に、いよいよ船に乗って三日間の「鯨を観察する航海」に出かけるのだった。
 サマー・キャンプの結団式は午後一時から、水族館の海に面した白い広場で行われた。ジムはジャッキー、それにクリスと一緒に並んだ。参加する子供達はローズタウン中から集まってきていて、知らない顔がほとんどだった。リックとその仲間たちの顔も見えたが、ジムは無視した。
 水族館の館長さんのあいさつに続いて、アイリーンがサマー・キャンプについて説明した。アイリーンが白に青のラインが入った制服姿で登場すると、ジムはなぜか胸がドキドキした。アイリーンは、いつも家で見るアイリーンとは別人のように、白く輝いて見えた。
 「ママ、かっこいいわね。そう思わない、ジム。」
 ジャッキーがジムの耳にささやいた。
 説明のあとはさっそく水族館の中を見学だ。ふだんは見られない、研究室や魚の飼育室も見られるのだ。アイリーンを先頭に、あとから子供たちがぞろぞろついていく。ジムはなるべくアイリーンの近くにいるようにした。
 「ローズタウン水族館は、アメリカ太平洋沿岸の魚類の研究がとても盛んな水族館です。世界各地から研究者が訪れています。サンフランシスコから車で飛ばしても六時間はかかる田舎にあるというのにね。」
 アイリーンの説明に子供たちの間から笑い声が起こった。マイクを持つアイリーンの顔は、とてもいきいきしている。
 ジムは、リックがまじめにアイリーンの説明を聞いているので、意外な感じがした。そばかすだらけの白い顔もよく見ると愛敬があるようにも見える。しかし、リックはジムが頭突きを食らわせて戦った「敵」であることに変わりはない。
 サマー・キャンプに来た子供たちが一番喜んだのはやはりベルーガ鯨のプフとパフを見たときだった。アイリーンがとても大切に飼育している二頭だ。
 「ベルーガ鯨は、シロイルカとも言われていて、ご覧のように真っ白な体をしています。でも、子供の時は暗い灰色か赤茶色をしているんですよ。成長するにしたがって色が変わるんですね。人間もそうだったらおもしろいわね。」
 子供たちが笑う。
 「さっきから、プフとパフが時々「ぴーぴー」って音を出しているのに気がついたでしょうか。ベルーガ鯨は、「海のカナリヤ」と呼ばれるほどいろいろな声で鳴きます。仲間どうしコミュニケーションをとっているのですね。」
 子供たちはしばらくプフとパフの鳴き声を聞いた。時間はたっぷりある。のんびりするのも、サマー・キャンプの目的の一つなのだ。
 「ベルーガ鯨は何年くらい生きるのですか。」
 誰かが質問する。
 「そうですね。四十年くらいかな。意外と長生きでしょう。」 
 アイリーンが答える。
 アイリーンが、プフとパフについて説明している間に、ちょっとした事件が起こった。一人の男の子が、
 「こんな狭いところに閉じこめていてかわいそうじゃありませんか。」
と質問したのだ。子供たちがざわついた。アイリーンは、困ったような顔をしている。
 「確かにそうですね。でも、水族館は何の理由もなくて動物たちを閉じこめているのではないのですよ。例えば、ベルーガ鯨の赤ちゃんがお母さんのお腹の中にいる期間とか、どういう食べ物が好きかとか、そういうことは水族館で飼育して初めてわかったのです。これから野生のベルーガ鯨を保護するためにも、このような知識は必要なのですよ。」
 アイリーンはそう説明したが、質問した男の子は納得しない。子供たちはますます、ざわざわし始めた。ジャッキーは
 「意地悪な子ね」
とジムにささやいた。ジムも、とても困った気持ちになった。なんだか、とてもいたたまれなかった。
 そのときだ。誰かが、
 「お前、犬飼ったことないのかよ。」
というのが聞こえた。子どもたちは一瞬きょとんとしたが、やがてどっと笑った。特に意味はなかったけれども、何となくおかしかったのだ。今まで質問していた男の子も、顔を真っ赤にして引っ込んでしまった。
 それで、その小さな事件も終わった。

 子どもたちは四日間、ローズタウン水族館にキャンプしながら、いろいろな人の話を聞いたり、魚の観察をした。
 その四日間もまたたく間に過ぎ、いよいよ明日からは三日間の「鯨を観察する航海」に出発だ。子どもたちの乗る「マーメイド号」はすでに水族館の前の船着き場に停泊していた。子どもたちは、その白い船体を見て胸をときめかせた。この航海のために、その前の「退屈な四日間」を我慢した子どもたちも多かったのだから。 
 航海の前の夜、ビーチでは大きなたき火を囲んでキャンプ・ファイヤーが行われた。真っ暗な海岸はそこのところだけ赤々と燃え上がって、その周りに子どもたちの黒い影が踊った。
 子どもたちは花火をしたり、「この国は君とぼくのもの。」を歌ったり、ゲームをやったりした。クリスは「海についてのクイズ大会」で商品をもらった。白と黒のシャチの縫いぐるみだった。
 「楽しいね。」
 クリスはシャチの縫いぐるみをかかえてジムのところにやってきた。
 「ところで、君知ってるかい。きのう、アイリーンが困っているときに「お前は犬飼ったことないのか」って言って助けたやつ、あれリックだったんだぜ。」
 クリスは、それから、あいつなかなかいいところあるじゃないかと言った。ジムは、ふーんと言っただけだった。
 ジムは、それよりも、黄色いTシャツを来た黒い髪の女の子がいないか、眼で探していた。サマー・キャンプの結団式の時から気になっていた女の子だ。誰かが、「ルーシー」とその子のことを呼んでいた。
 ぼんやりとたき火を見つめていたジムは、突然ボッと激しく燃え上がった炎に驚かされた。水族館の人が、ふざけてガソリンを口から吹いたのだった。子どもたちが「ゴジラだ。ゴジラだ。」と騒ぎたてた。
 ジムは、いつの間にかまた「ルーシー」のことを考えていた。それに、フランクの手紙の中に
 「ガール・フレンドができたか」
と書いてあったことも思い出したりした。

 鯨を観察することを「ホェール・ウォッチング」と言う。「ホェール・ウォチング」する五十人の子どもたちを乗せた「マーメイド号」は予定通り朝の十時に太平洋に出て行った。
 マーメイド号は一応帆はあるが、推進力はディーゼルだ。ふだんはディーゼルで航海し、晴れて風が出た日には帆を張って、燃料を使わずに航海できるようになっている。船長はブルックさんで、眼の横にしわがあり、早口でしゃべる人だった。そのブルック船長は、出航の時には
 「船長の言うことを聞かない子は海の上でも船を降りてもらうぞ。」
と言って子どもたちを震え上がらせた。もちろん冗談だったのだが、効果はてきめん、子どもたちの中には本気にして泣き出す子もいるほどだった。
 航海の初日はあいにくの雨だった。甲板の上は風が冷たく、十分も外に出ていると体の芯まで凍ってくるようだった。
 仕方がないので、子どもたちは船室の中でアイリーンの話を聞いた。アイリーンは南極海にシロナガスクジラを見に行ったときの話をした。ジムにとっては前に一度聞いたことのある話だった。それでも、巨大な鯨が海面からジャンプし、水しぶきを上げながら落ちていく様子をまるで目の前に見えるように語るアイリーンの話に、ジムはほかの子どもたちと一緒に引き込まれて行った。
 ジムの目はアイリーンの話を聞きながらルーシーの姿を探していた。ルーシーはジムとはちょうど反対側の、甲板への出口の近くの椅子に座っていた。ルーシーは、今日は青いプル・オーヴァーを着ていた。とてもよく似合っていた。
 でも、今日は、アイリーンの方もなかなかいかしていた。子どもたちを前にしたアイリーンの目はきらきらと輝いて、とてもすてきに見える。子どもたちのほとんどはアイリーンがジムやジャッキーの母親であることは知らないようだったが、ジムは密かに誇りに思った。
 雨は夜になると止んで、空は晴れ上がった。子どもたちが夜甲板に出てみると、空いっぱいに星が見えた。
 「天気予報だと、明日は晴れるぞ。」
 ブルック船長がパイプを口にくわえて言った。
 「ホェール・ウォッチング」の航海の二日目は素晴らしく晴れ上がった。風もほとんど無く、海は凪いでいる。
 「今日こそ鯨が見えるぞ。」
 子どもたちはそう期待して午前中から甲板に鈴なりになって海をながめた。しかし、海の上にはかもめが舞い、時々何か大きな魚が海面に白い水しぶきを上げるだけだった。
 午後になった。明日はお昼頃水族館に戻らなくてはならないので、今日の日没までの約五時間ほどが鯨を見る最後のチャンスだ。アイリーンはブルック船長と相談しながらマーメイド号の進路を決めた。
 ついに鯨の群れが見つかったのは、午後二時頃だった。マッコウクジラの群れだった。子どもたちはいっせいに鯨の見える側の甲板に集まった。あちらこちらで歓声が上がる。
 ジムも、甲板の手すりに寄りかかるようにして鯨の群れを見た。群れは船から千メートルほど離れたところを泳いでいた。
 マーメイド号は鯨たちを驚かせないようにゆっくり、ゆっくりと近づいて行った。三百メートルほどのところに近づくと、鯨たちの黒い背中と背びれが海面に見え隠れしているのがはっきりと見えてきた。十頭ほどの群れのようだ。
 「みなさん、鯨に会えて良かったですね。」
 アイリーンはハンドマイクを持って笑顔で言った。
 「この群れはメスと子どもの群れのようです。少し小さいめの子鯨が二頭いるのがわかりますか。小さいといっても、あれで六メートルはあるのですよ。」
 子どもたちの間からどよめきが起こる。
 アイリーンの説明を聞きながら、子どもたちは群れを観察した。鯨のいるあたりの海面はそこだけ白く泡だっているようだった。鯨の群れを追うように、白い海鳥が上空を旋回していた。
 「あれは、鯨の群れに驚いて飛び出してくる魚をねらっているのですよ。」
 アイリーンがそう説明して五分くらいしたとき、海鳥が突然海面に急降下するのが見えた。どうやら魚を取ったようだ。 
 マーメイド号は鯨の群れとの距離を約二百メートルに保ったまま、群れと平行に進んでいった。まるでマーメイド号も鯨の群れの一員になったかのようだ。
 ジムは、鯨の姿にぼんやりと見とれていた。今、目の前で鯨が泳いでいるなんて信じられない気持ちだった。海の中だから、こんなに大きな動物も生きることができる。そんな話を、前にジムは聞いたことがあった。海の中は上にも下にも、どんな方向にも動き回れる、とても自由な世界なのだ。こんな大きな生きものは、陸の上では窮屈で窒息してしまうだろう。
 突然、一頭の鯨が空中に跳び上がったと思うと、体を空中でひねりながら落ちてきた。ズボーンと大きな水しぶきが上がった。
 それから、まるで合図を待っていたかのように、鯨たちは次々と空中にジャンプすると、水しぶきを上げて落ちた。
 「大きいなあ。」
 ジムのすぐ横で声がした。ジムは振り向いた。リックだった。ジムは体を固くした。
 リックはそばかすだらけの白い顔をほころばせて笑っている。
 「大きいなあ。」
 リックはもう一度言った。リックは、心から鯨が大きいのに驚いているようだった。ジムに言っているというよりは、独り言を言っているようだった。
 ジムは、何も言わなかった。リックの方を見ないように、頭も海の方を向けたまま動かさなかった。ジムはそうやって、リックのすぐ隣で鯨のジャンプを眺め続けた。そうしながら、ジムは、リックがジャッキーに「クロンボの弟がいる」と言ったことや、ジムのことをにらみつけたことを思いだそうとしていた。だが、駄目だった。こうして、海に遊ぶ鯨の群れを見ていると、そんなことはどうでもいいことのように思えてくるのだった。
 ジムとリックの目の前で、鯨の群れはジャンプを続けた。ジムには、ジャンプする鯨の姿が大空を漂っていく大きな飛行船のように見えた。そうやって鯨の姿を見ていると、ジムの心の中の何かが溶けていくようだった。
 そうやって、ジムとリックは何分くらい並んで鯨のジャンプを見ていただろうか。クリスが二人のところにやってきた。
 「やあ、そばかすくん元気かい。」
 リックは振り向いた。
 「なんだよ。コンピュータ野郎か。まあ、こっちにきて鯨でも見ろよ。」
 クリスも、二人と一緒に手すりに並んだ。
 それから、クリスはリックと鯨の話をした。リックがいろいろ質問をして、物知りのクリスがそれに答えた。
 ジムは、そんなクリスとリックの会話を聞きながら、体の力が抜けて行くのを感じた。
 ジムは、
 なんだあ!
と心の中で叫んだ。クリスのやつ、あんなに簡単に仲直りしやがって・・・。
 でも、そんなジムを鯨は笑っているように見えた。

 マーメイド号はマッコウクジラの群れを一時間ほど追った。群れはやがていつのまにか海面から姿を消して、大海原のどこかに消えた。
 「きっとえさを取りに潜っていったのです。マッコウクジラは水深千メートルまで潜ることができると言われているのですよ。でも、こんなに長い間観察できてラッキーでした。」
 アイリーンの説明もこれで終わりだ。子供たちは、鯨たちの消えていった海面を眺めて名残を惜しんでいた。
 夕暮れになった。夕陽が大きく真っ赤に燃えて水平線に沈んで行く。マーメイド号の上では明かりがともり、お別れパーティーの準備が始まった。
 マーメイド号の船室は五十人の子供たちとアイリーンを始めとする水族館のスタッフ、それにマーメイド号の船員たちで一杯だ。明日の昼頃にはローズタウン水族館に着いて、そこで解散となる。
 ジムとクリスはフルーツ・カクテルを食べながら「サマー・キャンプ」の感想を話し合っていた。
 「長いようで短い七日間だったな。」
とクリス。
 「やっぱり、今日の鯨のジャンプが一番良かったな。」
とジム。
 二人の周りでは、五十人の子供たちがそれぞれの感想を話し合っている。
 お別れパーティーは夜の九時頃まで続いた。
 次の日の十二時過ぎに、マーメイド号はローズタウン水族館の前の船着き場に到着した。もう航海を終えてしまうのがもったいないほど、素晴らしく晴れ上がった日だった。船着き場には子供たちの母親や父親が大勢迎えに来ていて、マーメイド号の姿を見ると手を振った。
 「おーい。」
 ジムとクリスもふざけて、大声を出しながら手を振った。
 サマー・キャンプの最後はあっけなく、船が着いて三十分もすると水族館にはもう誰もいなくなった。子供たちは皆、親と一緒にそれぞれ車で帰ってしまったのだ。
 「まるでもう夏が終わっちゃったみたい。」
 ジャッキーがさびしそうに言った。

 こうして、ローズタウン水族館主催のサマー・キャンプは無事に終わった。ジムとジャッキーは残ってあとかたづけを手伝った。そのあとかたづけも終わり、夕方六時から水族館の食堂では「打ち上げパーティー」が始まった。
 まず、乾杯だ。誰かが
 「アイリーンばんざい。」
と言って、その後いっせいに拍手が起こった。アイリーンは顔を紅潮させてワイングラスを持っている。
 ジムは、部屋のすみの椅子に座ってサンドウィッチを食べていた。あごにもじゃもじゃとヒゲをはやしたおじさんがやってきて、隣に座わった。
 「サマー・キャンプは楽しかったかい。」
 ジムはうなずいた。ジムはおじさんが誰だったか思い出せなかったが、おじさんはジムのことを知っているようだ。
 「今度のサマー・キャンプは君のお母さんのおかげで大成功だったね。君も、あんな立派なお母さんがいて誇らしいだろう。」
 おじさんはアイリーンの方を見て言った。アイリーンは右手にグラスを、左手にご馳走のいっぱい載った皿を持って三人の人に囲まれて話しているところだった。部屋の中には大勢の人がいるのに、アイリーンのところだけがぱっと明るくなったようだった。
 「うん、ぼく、誇らしいと思うよ。」
 ジムはおじさんに答えた。
 その日、パーティーが終わって家に向かったのは十一時を過ぎていた。満天の星空が、まるでシャンデリアの下のゼリーのようにぶるぶる震えていた。
 アイリーンは機嫌がよいらしく、車を運転しながら口笛を吹いている。ジャッキーは疲れたらしく車の中で眠り込んでしまった。ジムは、もの思いにふけりながら車の窓から外を見ていた。
 家に着いて車の外に出ると夜の空気は意外に冷たく、三人の足音が夜空に響いた。
 「ああ寒いわね。ココアでも飲みましょうか。」
 アイリーンがドアを開けながら言った。 ジャッキーはよほど疲れていたのだろう。アイリーンがココアを飲もうと誘ったのだが、いらないと言うように手を振って
 「おやすみ、ママ。おやすみ、ジム。」 
と言うと、自分の部屋に行ってしまった。
 そこで、アイリーンとジムは居間のソファに腰かけて二人だけでココアを飲んだ。暖かいココアがのどを通っていくと、ほっとした気持ちになる。
 アイリーンはカップをまるでひよこを持つように両手で包んで、ぼんやりと前を見ていた。カップから白い湯気がたっている。
 「ぼく、大学に行こうと思うんだ。」
 ジムは突然そう言うとアイリーンのまねをしてカップを両手で包んだ。アイリーンはほーっとため息を一つついてから、ジムを見てにっこりと笑った。
 「そう。それで、飛行船のパイロットになるの? 」
 ジムは首を振った。
 「わからない。大学で研究をして、博士になるかも知れない。」
 アイリーンはまた笑った。
 「そう。それもいいかもしれないわね。」
  ココアをすすりながら、アイリーンは自分が大学生だった頃の話をした。ミスター・スミスとも大学で知り合って結婚したのだ。
 「あの頃は楽しかったわ。」
 アイリーンは夢を見るように言った。
 二人はそれからココアをもう二杯ずつ飲んだ。ココアを飲みながら、二人は楽しく話した。話題は、アイリーンの学生時代の思い出や、ジムの将来の夢、それにジムがチャールズと魚釣りにいった時のことなど、いろいろだった。
 やがて夜が更けてきて、ジムは眠くなってきた。
 ジムは大きなあくびをして、眠そうに立ち上がった。でも、ジムは寝る前にアイリーンに言いたいことがあった。ジムは大きく息を吸い込んだ。
  「おやすみ、ママ。」
 アイリーンはちょっとびっくりしたようにジムを見た。ジムは、少し照れくさそうにもう一度小さな声で
 「おやすみ、ママ」と
言った。
 「おやすみ、ジム。」
アイリーンが、静かに答えた。
 ジムが自分の寝室に入ろうとして振り返ると、スタンドランプの明かりのともった居間に一人でぽつんと座っているアイリーンが見えた。アイリーンは、まだ湯気のたっているココアが入ったカップをぼんやりと見つめていた。その時のアイリーンの姿はジムの目に焼き付いて、ジムはそのことを一生忘れることはなかった。

               エピローグ

 九月のある晴れた日曜日、ローズタウンの市役所のとなりの教会でアイリーンとチャールズの結婚式が行われた。花嫁と花むこはとても幸せそうで、花むこが式の最中に指輪を落としてしまった以外はパーフェクトな結婚式だった。
 花嫁と花むこが教会から出てくると、クリスとデーヴィスが米を投げつけた。ジョージおじさんは花嫁にバラの花束を渡してキスをした。ジムは、ダブルのスーツでびしっと決めて立っている。ジャッキーはサンフランシスコからかけつけたミスター・スミスのとなりで、顔をくしゃくしゃにしていた。

 そして、この日、一つの家族が誕生した。

 チャールズはモンタナ州に生まれ、サウス・キャロライナ州にある大学で経済学を学んだ。その後、三年間海軍に入ってヨーロッパに赴任していた。そして海軍を退役した後「ヘンリー銀行」に就職して現在ローズタウン支店で働いている。趣味は「釣り」だ。

 アイリーンはワシントン州に生まれ、六才から十才までは両親の仕事の関係でパリにいた。カリフォルニアの大学で海洋生物学を学び、ロジャー・スミスと結婚した。そして、南極海へ鯨の調査に出かけ、博士号を取った。その後ロジャー・スミスと離婚した。現在、ローズタウン水族館に勤めている。趣味は「鯨」だ。

 ジャッキーはアイリーンとロジャー・スミスの間に生まれた。現在十二才で、フェアレイク小学校の六年生だ。よくアイリーンに似ていると言われる。趣味は「バラ」だ。

 そして、ジムはニューヨーク州のブロンクスに生まれた。両親はジムが二才の時にジムを残してどこかに行ってしまった。その後、ブロンクスの聖メアリ孤児院に八年間いた。アイリーンがジムを養子にしたので、ジムはローズタウンに住むことになった。ジムは今十才で、フェアレイク小学校の五年生だ。趣味は「飛行船」だ。

 この四人が、この日、一つの家族となったのだ。
 「やあ、フランク、元気かい? ぼくの方は、まあまあうまくやっているよ。」
 ジムは、孤児院にいるフランクに手紙を書いた。
  
        白鯨のいる水族館 ー終ー

著者のノート
『白鯨のいる水族館』は、1994年、大学院生の時に書いた「習作」です。