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      第五章 リックとの決闘

 サンフランシスコからローズタウンへの帰りのバスの旅は楽しいものだった。行きは夜行バスだったので景色はほとんど見えなかったのだが、帰りは左側に海が、右側にうねうねと続く山々が、いつまでも続くかと思うほど見え続けた。
 そのうち、お昼になったので、ミスター・スミスの買ってくれたローストビーフ・サンドウィッチを食べることにした。ビーフは肉汁がたっぷりで、からしも程良く利いていて、三人は夢中であっという間に食べてしまった。まあ、そんな味のことを言う前に、三人とも、とてもお腹が減っていたのだけれども。
 あんまりお腹が減っていたし、またあんまりローストビーフ・サンドウィッチがおいしかったので、食べ終わった後も、何となく物足りなかった。
 そこで、クリスが、
 「ついでにクロワッサンも食べてしまおうぜ」
と言って、ジムも一瞬その気になってしまった。クリスとジムは今にもクロワッサンに食いつきそうな勢いだったので、ジャッキーはあわてて
 「これはアイリーンへのおみやげだからダメ」
とたしなめて、二人を思いとどまらせなければならなかった。
 サンドウィッチを食べた後は、トランプをした。ジャッキーはとても陽気で、ジムはこんなに明るくて口数の多いジャッキーを見るのは初めてだと思った。実際、「ポーカー」をやっている時にジャッキーははしゃいで、まるで狩りに出かけるインディアンのような大声を出したので、バスの運転手さんに注意されたほどだった。
 その日は朝からとても天気が良かったのだけれども、夕方になり、あたりが暗くなる頃になって、急に天気が変わり始めた。空を黒い雲がおおい始め、時々稲妻が光るようになった。特に、バスが進む北の方角には地平線から黒い雲がもくもくと立ち上がり、バスはその雲の方へ向かって走るものだから、まるでその雲に飲み込まれそうで恐かった。そして、バスがローズタウンのバス・ターミナルに着く頃には、本格的な雷雨になっていた。雨はガラス窓に激しく当たって、ガラス窓が壊れるのではないかと思うほどだった。
 バスが止まっても、ジムは、物思いにふけって、雨粒が滝のように流れる窓から外をのぞいていた。もう、あたりは真っ暗だ。ローズタウンのバス・ターミナルはぼんやりとオレンジ色に浮かび上がっていて、その中に赤い服を着たアイリーンが来ているのが見えた。
 「おい、アイリーンが迎えにきているぜ。」
 同じように外を見ていたクリスがささいた。
 しかし、クリスにとって不幸なことに、ターミナルに迎えに来ていたのはアイリーンだけではなかった。クリスのお母さん、ミセス・ジョンソンも来ていたのだ。おかげで、クリスは、ジムとジャッキーの見ている前で、ミセス・ジョンソンに思いきりしかられてしまった。クリスは、珍しく神妙に、頭をうなだれていた。もっとも全面的にこちらの方が悪いのだから、仕方がない。
 一方、アイリーンの方は、驚いたことに、怒るどころか、サンフランシスコはどうだった、とニコニコしながら聞くのだ。子供が家出したというのに、いくら何でも変わってるよとジムは思った。でも、そんなアイリーンが、長い間離れていたわけでもないのに、とてもなつかしく思われた。
 ジャッキーがサンフランシスコのおみやげのクロワッサンの入った袋を見せると、アイリーンの目が闇夜の猫のように一瞬輝いた。アイリーンは、クロワッサンの入った袋を腕にしっかりと抱えて、
 「ありがとう」
と、本当に嬉しそうに、まるで若い娘のような口調で言った。ジムは、何か背中がかゆいような感じになった。後でクリスがジムに入れ知恵したところによると、アイリーンとそのクロワッサンは絶対に「怪しい」のだった。クリスによると、アイリーンのあの喜び方は尋常ではない、きっと、昔の思い出、それも、ミスター・スミスとの思い出が、あのクロワッサンには詰まっているに違いないというのだった。ジムは、そうかなあと思ったが、その割には、次の朝アイリーンは、そのクロワッサンをごくふつうのパンと変わらないように、すなわち、何となくぼんやりしながら食べていたとジムには思われた。

 アイリーンとクロワッサンの話はさておき、ジムたちの家出は、ちょっとした騒ぎを巻き起こしていたようだった。
 アイリーンは、もちろん、いつものようにのんびり構えていた。だから、お昼頃ミスター・スミスから
 「子供たちがサンフランシスコに来ている」と水族館に電話があるまで、ジムたちがいないのに気がつかなかった。
 一方、クリスの家では、クリスの両親が朝になってクリスがいないのに気がついて、それから大騒ぎになった。クリスのお父さんのミスター・ジョンソンは会社に「息子がいない」と電話して、会社を休んだ。ミセス・ジョンソンは学校に「クリスを知りませんか」と連絡した。それからミスター・ジョンソンとミセス・ジョンソンは、まぶしい初夏の日差しの下で、ハンカチで額を拭いながらあちらこちら探した。ローズタウン中をクリスの行きそうなところはくまなく探した。それでも見つからないので、ミスター・ジョンソンとミセス・ジョンソンはお昼過ぎになって一度家にもどり、居間のソファの上で
 「いよいよ警察に連絡しようか」
と相談し始めた。ミセス・ジョンソンは気が遠くなりそうになって、気付けのブタンデーを飲まなければならないほどだった。そこに、アイリーンから 
 「ジムとジャッキーとクリスはサンフランシスコにいるらしい」
と電話があったというわけだ。こういう顛末だったので、クリスがミスター・ジョンソンとミセス・ジョンソンにひどく怒られたことは仕方のないことだった。
 一方、ジムとジャッキーはアイリーンにしかられなかったのは良かったのだが、学校で先生から
 「君たちは問題児だ。カウンセリングを受けなさい。」
と言われて、二人とも毎週木曜日の放課後にカウンセリングを受けるはめになってしまった。ジムは孤児院の時にさんざん「カウンセリング」を受けて、実際うんざりしていたのだが、仕方がなかった。
 「カウンセリングって、大人がまじめくさった顔をして、「君の悩みごとは何かね。何でも打ち明けてごらん。」なんて言うんだぜ。いやになっちゃうよ。」
 ジムはクリスにこぼした。「家出」から二三日たって、そろそろほとぼりがさめたというので、クリスがジムの部屋に遊びにきていた。
 「でも、サンフランシスコにいったのは楽しかったからいいじゃないか。ちょっとした冒険だったしね。それに、ジャッキーもパパに会えて良かったしね。」
 クリスは、叱られたのも忘れてけろっとしている。クリスは、よくコンピュータで失敗して面倒になると、スイッチを切って「リセット」してしまう。「リセット」すると、コンピュータは今までやっていたことをすっかり忘れて、元通りになってしまう。家出して叱られたことをすっかりわすれたクリスは、まるで「リセット」したコンピュータのようだ。
 確かにサンフランシスコへの家出は楽しかった。しかし、クリスの顔を見ているうちにジムは何か大切なことを忘れているような気がしてきた。それが何かを思いだそうとしているうちに、ジムの頭の中に、急にリックの白いそばかすだらけの顔が浮かんで来た。
 そうだ! 
 リックだ!
 考えてみると、ジャッキーが学校を休んだのも、急にサンフランシスコに行くと言い出したのも、みなリックが
 「お前の弟は黒んぼだ」
と言ってジャッキーをいじめたからだった!
 「クリス、もう一つやらなくちゃいけないことを思い出したよ。手伝ってくれるかい?」 ジムはそう言ってニヤリと笑った。

 ジムが、リックと「決闘」してジャッキーをいじめた仕返しをすることにしたと告げると、クリスは目を丸くした。
 「何だって! へえ。それはすごい。あんなやつ、のしちまえよ。」
 そう言ってから、クリスはジムをまじまじと見つめた。
 「それにしても、君にそんな勇気があるとは思わなかったよ。」
 クリスにそう言われてみると、ジムは何だか自信がなくなってくるのだった。 
 クリスは家に帰り、ジムはベッドの上に横になって、ぼんやりと考えごとをしていた。ジムは、いつの間にか聖メアリ孤児院のことを思い出していた。一番仲の良かったフランクのこと、百人くらいの子供達が一斉に給食を受けた大きな部屋のこと、ブロンクスの小学校のこと。
 ジムがはっとして気がつくと、アイリーンがベッドの横に立っていた。
 「考えごと? ジム。」
 アイリーンは、ジムのベッドの上にこしかけた。
 「少し、あなたとお話していいかしら、ジム。」
 ジムは、ベッドの上に起き上がってうなずいた。
 それからアイリーンは、ジムに、ローズタウンに来てからの生活をどう思うか、アイリーンは母親として良くやっていると思うか、フェアレイク小学校は楽しいか、勉強はついていけるかなどと次々と質問した。ジムは、
 「まあね。」
とか、
「まあまあだよ。」というように、あいまいに答えた。
 アイリーンはそれから、ジムが希望するなら大学まで行くだけのお金を出してあげるし、ひとりだちするまで、いつまでもいていいと言った。ジムは、「大学」などということは今まで考えたことがなかったので少し頭がふらふらとした。しかし、興味がないわけではなかった。
 アイリーンが部屋を出て行ってしまったあと、ジムは再びベッドに横になって、飛行船のパイロットになるには大学に行かなくてはならないんだろうか、などととりとめもないことを考えてみた。
 ジムは、クリスに「リックと決闘する」と言ったものの、心の中ではどうしようかと少し迷っていた。リックはジムより一才年上だし、体もジムより一回り大きかったからだ。ジムは、クリスに臆病者と思われたくはなかったが、けんかしてけがをするのも恐いような気がした。
 しかし、次の日学校に行くと、もうジムはリックと決闘するしかないことがわかった。クリスがすっかり乗り気になって、いろいろな人に「ジムがリックと決闘する。」と話してしまったからだ。
 「デーヴィスが君にけんかの仕方を教えてくれるってさ。デーヴィスにレッスンを受ければ、リックなんてイチコロで倒せるよ。」
 クリスは、他人のことだと思って、気楽なものだ。   
 放課後、クリスと一緒に運動場の鉄棒のところで待っていると、デーヴィスがバスケットボールのユニフォームでやってきた。デーヴィスはジムに親指を立ててあいさつした。
 「よお、ジム。リックのやつをやつけるんだってな。お前、ふ抜けかと思ってたら、なかなかやるじゃないか。」
 ジムは、「当たり前だ」といった顔をしたが、内心は頼りない気持だった。
 デーヴィスは、まずジムに相手の殴り方を教えた。
 「一番きくのはあごだな。あごをめがけて一発かますんだ。そのとき、こぶしは必ず親指を中に入れておくように。そうしないと、突き指するかもしれないからね。」
 けんかしてなぐりあうのに、突き指を気にするのも変な感じだ。そんなことよりも、ジムが一番教えてほしいのはどうしたら相手になぐられずに済むかだった。そんなジムの心にはおかまいなしに、デーヴィスはさらに「頭突きのしかた」や、「足の払いかた」や「眼つぶしのしかた」を教えた。
 家に帰るジムは、これから起こるかもしれないことをいろいろ考えて不安だった。そんなジムの心配をよそに、クリスときたら明日はリックに送る果たし状の文章を考えてくるというのだ。やれやれとジムはため息をついた。
 次の日、クリスはリックへの果たし状をもって来た。クリスの家のコンピュータで、美しく印刷してあった。
 「君はここにサインするだけでいいよ。まあ、一応文章も読んでみてくれたまえ。」
 ジムは言われたとおりクリス作の「果たし状」を読んだが、難しい単語がいっぱい並んでいて、何のことか良くわからなかった。ただ、ジムが土曜日の午後一時に、学校近くの公園でリックと「決闘」するらしいということはわかった。
 「すごいだろう。リックのやつを煙に巻いてやろうと思って、辞書の中から難しい単語を集めたんだ。」
 クリスは鼻をふくらませて得意満面だ。
 その次の日の朝、ジムはクリスとデーヴィスに付き添われて、いつかリックと出くわしたことのある「ジョンソン雑貨店」の前の曲がり角でリックを待った。ジムが心臓をドキドキさせて待っていると、十分くらいでリックがガムをくちゃくちゃかみながらやって来るのが見えた。
 一人だった。
 やがて、リックはよそを向いて近づいてきて、ジムたちの横を無視して通り過ぎようとした。
 クリスがジムを押し出した。ジムはリックの前に飛び出し、ちょうど行き先をさえぎる格好になった。リックは、それでも無視して行こうとしたので、ジムはおそるおそる声を出した。
 「これを受け取ってくれ。」
 ジムは、自分の声が細くて頼りないのに落胆した。もっと迫力をつけようと思って、もう一度、今度はできるだけの大声をリックにぶつけた。
 「これを受け取ってくれ。」
 リックは、ジムの差し出した「果たし状」をまじまじと見た。
 「何だいこれは。ラブレターか。」
 「果たし状だ。僕の姉妹のジャッキーをお前がいじめたから、決闘するんだ。」
  リックは、馬鹿にしたようにジムの顔を斜めからにらみつけた。
 「なるほど、これがニューヨークの孤児院のやりかたってわけか。」
 リックはそう言うと、ジムの手から「果たし状」をもぎ取ると、後をも振り返らずにどんどん歩いて行ってしまった。リックの姿は全く堂々としていて、動揺した様子は全くなかった。それが、ジムには悔しかった。ジムは、肩をゆすりながら歩いていくリックの姿をこぶしをぎゅっと握ったまま見送った。

 「ジム、今日はおとなしいわね。」
 アイリーンはジムの顔をのぞき込むようにして笑った。
 その日は、アイリーンが家にいる日だった。夕食の席には、アイリーンにジム、それにジャッキーの三人がそろった。ジムがおとなしかったのは、もちろん明日のリックとの決闘のことが心配だったからだが、そんなことをアイリーンが知るはずもない。
 「今日ミスター・スミスから手紙が来たわ。」
 ジャッキーがさやまめをフォークで突き刺しながら言った。以前はアイリーンの前ではミスター・スミスのことは一言も口にしなかったのに、サンフランシスコに行って以来ジャッキーは大変な変わりようだ。ミスター・スミスの手紙のことを話しているうちに、いつの間にか話題はアイリーンとミスター・スミスが一緒に暮らしていて、ジャッキーがまだ小さかった頃の話になった。
 「それで、お父さんはお母さんが南極に鯨の調査に行くのに猛反対してね。」
 まるでアイリーンがそう言うのを、ジャッキーは待っていたかのようだった。
 「ねえ、お母さんが南極に行ったときの話を、久しぶりにしてよ。ジムはまだ話を聞いたことがないと思うし。」
 そこで、アイリーンは南極に一年間出かけた時の話をしてくれた。
 アイリーンはシロナガスクジラという、世界で一番大きな鯨の生態を観察するために、南洋調査船に乗りこんでいたのだ。といっても、主な仕事は「待つ」ことだった。鯨の群れに出会うためには、何週間も、時には何ヵ月も待たなければならないからだ。もっとも、待っている間も美しいオーロラやひょうきんなペンギンたちが退屈をいやしてくれたけれども。
 とにかく、アイリーンはこの調査結果を論文にまとめて、博士号を受けることができたのだった。そのおかげで、ローズタウン水族館に就職する事ができたのだ。
 アイリーンの話はとてもおもしろかったので、ジムはしばらくの間は、明日リックと決闘するということを忘れていたほどだった。

 ジムとリックの決闘の日がやってきた。
 ジムは、朝早く目が覚めた。
 ジムは、夢を見ていたところだった。変な夢だった。アイリーンの家の前の通りを、たくさんのペンギンが一列になって歩いているのだ。ペンギンたちは、皆なぜか青い帽子をかぶっていて、ひょこひょこと左右に揺れながら歩いている。ところが、ジムの方は焦っていた。ジムは通りの反対側にいて、どうしてもアイリーンの家に行かねばならなかった。何故か理由はわからなかったが、とにかく通りを渡ってアイリーンの家へ急いで行かねばならなかったのだ。ところが、ペンギン達が邪魔をする。ジムが渡ろうとすると、必ずペンギンがジムの前を横切るのだ。
 急いでアイリーンの家に行かなくては!
 ジムは焦って、ペンギンの列がやってきている方角を見た。ペンギンの列は、アイリーンの家の前の通りを、どこまでも続いている!地平線までまっすぐ伸びた通りを、どこまでもペンギンの列が続いているのだ! ジムは、パニックになりそうになった。
 気がつくと、ジムは自分の部屋のベッドの上で汗だくになっていた。今のペンギンたちが夢だったと気がつくのに、しばらくかかった。
 何であんな変な夢を見たのだろうと、ジムは不思議に思った。ジムの部屋の窓からは、アイリーンがカフェ・オレを飲むときに使うカップの色のような、白い光が差し込んでいた。ベッドから起きあがって、ジムが窓から外をのぞいて見ると、アイリーンの家の前の樫の木の若葉の向こうに青い空が見えた。通りには、もちろん青い帽子をかぶったペンギンなどいなかった。

 土曜なので学校は休みだ。ジムがトースト二枚と紅茶の朝食をすませて、何となく落ちつかなく自分の部屋でぶらぶらしていると、十時頃になってクリスとデーヴィスがやってきた。デーヴィスは必勝の作戦を考えたと言う。
 「やつの方が体がでかいから、なぐろうとしてもリーチで負けるよ。それよりも、まずいきなり頭突きを食らわせて、やつのふところに飛び込むんだ。そうすれば、いくらリックがなぐろうとしても、君の背中しかなぐれないから、とにかく我慢して、前にどんどん進んで、やつを押し倒してしまうんだ。」
 デーヴィスの作戦は、「背中をなぐられても我慢する」というのは別として、確かになかなか良い作戦のように思えた。
 約束の午後一時の十分ほど前、三人は待ち合わせ場所の公園に向かった。
 「いいか、のしちまえよ。やつは君の姉妹をぶじょくしたんだぜ。」
とクリス。
 「君のことを黒んぼって言ったんだからな。」とデーヴィス
 一方、ジムの方は、そんな二人の激励も耳に入らない。フランクがいたら、こんな時心強いのだが。実際、ジムは今までけんかなどしたことがないのだ。それなのに、クリスもデーヴィスも、ジムが「ニューヨークのブロンクスから来た」というだけで、けんかに強いと思っているらしいのだ。
 そうこうしているうちに、リックと約束の公園にやってきた。クリスの腕時計は一時三分を示している。リックの姿はどこにも見えない。ジムは何となくほっとした。
 「やつ、怖じ気づいたかな。来ないんじゃないか。」
 クリスがそう言った。
 公園には、一面に黄色いタンポポが咲いていて、まぶしい太陽のもと、白い蝶がひらひらと舞っている。それは、拍子抜けするほどのんびりとした光景だった。三人は草の上に腰をおろした。
 ジムは、ひょっとしたらリックは来ないのではないかと思った。それも、ジムと決闘するのが恐くなったというよりも、そもそもジムのことを馬鹿にしていて、最初から相手にしていないのではないかと思った。何しろ、リックはジムより年上だし、体だってジムよりはるかにでかいのだ! ジムは、もしリックが来ないなら、それはそれでいいと思った。その方が、ありがたいとさえ思った。 
 約束の時間から三十分がすぎ、ジムが何となくうとうとと眠気をもよおしてきたときだ。デーヴィスの
 「来たぞ」
と言う声にジムははっとした。気がつくと、デーヴィスもクリスも立ち上がっていた。公園の反対側の入り口から、リックがゆっくりと入ってくるのが見えた。
 リックは、一人では来なかった。いつもリックと一緒にいる仲間が二人、リックに寄り添うようにしてやって来た。リックはジムたちの姿を見ると、かんでいたガムを勢い良く吐き捨てた。
 リックたちは、肩を怒らしてジムたちの方へ歩いてきた。あと十メートルくらいまでのところに近づいたとき、クリスのやつがびっくりするくらい大きな声を上げた。
 「やあ、君たち、遅れちゃったね。まあ許してあげるよ。」
 リックは、うるさいという風にクリスを無視して、ジムのことをにらみつけている。ジムは、胃がぐいと縮まり、口の中が苦い味になってきたような気がした。
 「ルールを説明しろ。」
 リックが吐き捨てるように言った。
 デーヴィスが、一歩前進した。
 「武器は使わないこと。周りの者は手を出さないこと。相手がまいったと言ったらすぐやめること。以上だ。」
 リックは、わかったというようにうなずいた。ジムも、つられるようにうなずいた。
 リックは、ジムのことをにらんだまま立っていた。白い顔が上気して、そばかすがひときわ目立った。ジムも、負けないように眼を合わせた。ルールの説明も終わったし、あとは決闘するしかないようだ。いつまでも、そうやってにらみあっていても仕方がない。
 「始め。」
 デーヴィスが合図をした。
 リックは、じり、じり、とジムの方に近づいてきた。ジムは心臓がドキドキして、胃袋がのどの中に飛び出してくるような気がした。ぎゅっと握りしめた拳に、じとっと汗がにじむのがわかった。
 「ジム、作戦だ。作戦を忘れるな。」
 どこか遠くの方で、デーヴィスの声がした。ジムははっとして、唾を飲みこんだ。次の瞬間、ジムは頭を下げると、リックの方に突進して行った。
 ジムはもう無我夢中だった。何歩走ったのだろうか。ジムは突然がつんという衝撃を感じると、リックに頭突きを食らわせていた。一方、リックの方はまさかジムが先制攻撃をかけて来るとは思っていなかったので、お腹のあたりにまともに頭突きを食らってしまった。リックはうーんとうなると、そのままジムの勢いに押されて後退して行った。
 ここまではジムの作戦通りに行ったのだ。しかし、ようやく気を取り直したリックは、自分のお腹のあたりにあるジムの顔めがけて、思いきりパンチを浴びせた。めくらめっぽうだったのでねらいは正確ではなかったのだが、それでもパンチはジムの口のあたりに鈍い音をして当たった。今度はジムがうなる番だった。ジムは、口の中が再び苦い味になってくるのを感じた。
  「ジム、ぐずぐずするな。押し倒しちゃえ。」
 どこかでクリスの声が聞こえる。ジムは、気が遠くなりそうになりながら、頭をクリスのお腹につけたまま、夢中で前に進んで行った。そうしている間に、リックの二発め、三発めのパンチが飛んできた。二発めははずれたのだが、三発めはジムのほっぺたにあたって、ジムは頭の中がじーんとしびれるような感じがした。
 もうジムには何が何だかわからなくなって、「ウォー」と叫ぶと、がむしゃらに前進した。するとどうだろうか。リックの体は、急に手ごたえが無くなったと思うと、大きな音を立てて地面に倒れて行くではないか! ジムも、ちょうどその上にのしかかるるようにして、リックに続いて倒れて行った。ジムは、自分でもびっくりするくらいすばやく立ち上がった。一方、リックはうーんといったままなかなか起き上がらなかった。倒れたときに背中を強く打って、しばらく呼吸ができなかったのだ。
 「今だ。行こう。勝負は終わりだ。」
 クリスがジムの手をとった。ジムはその声に救われるように、リックのそばから離れた。
 「逃げろ。」
とクリスが耳打ちした。気がつくと、ジムも、クリスも、デーヴィスも夢中で走り出していた。

 しかし、リックの仲間たちは追いかけてこなかった。最後にジムが振り返って見たときには、リックが仲間二人に助けられて、よろよろと立ち上るのが見えた。
 ジムとクリス、それにデーヴィスは公園からずっと走り続けて、アイリーンの家が見えたのでやっと立ち止まった。三人とも息が切れそうだった。
 「勝ったな。ジムの勝ちだ。」
 クリスがまず最初に口を開いた。ジムはひざに手を当てて前かがみになっていたのだが、顔を上げてにやっと笑った。デーヴィスが声を上げた。
 「おい、ジム、口から血がでているぜ。」
 そう言われて、はじめてジムは唇のところが切れて血がにじみでているのに気がついた。ほっぺたの中も、どうやら切れているようだった。
 「平気だよ。」 
 そう言ってジムは道ばたにぺっと唾を吐いた。少し血が混じっている。
 「とにかく手当てだ。それからジムの勝利を祝おう。」
  三人は、アイリーンの家に向かった。
 ドアを開けたジムは、ちょうど出てくるところだったアイリーンと出くわしてびっくりした。さっき公園に出かけるときにはアイリーンはいなかったからだ。一方、アイリーンの方もジムの顔を見てびっくりした。唇のところからずいぶん血が出ていたし、リックになぐられた右のほっぺたが黒ずんではれあがり始めていたからだ。
 「まあ、ジム、どうしたの。自転車から落ちたの? 」
 アイリーンは急いでジムを抱きかかえると、洗面所へ連れて行った。
 ジムはアイリーンが唇の切れたところを洗っている間、しかめっ面をしていたが、あまりの痛さに我慢しきれなくなって、時々うなり声を上げた。それからジムはうがいしたが、右のほっぺたの内側がじんじんと痛んだ。アイリーンは、ジムの唇の傷を消毒して、ばんそうこうを貼った。ジムは自分でも認めるくらい、みっともない顔になっている。この頃になると、アイリーンは、ジムの怪我が自転車から落ちてできたものではないことに気がついたようだった。アイリーンはジムを居間のソファに座らせると、玄関に少し心配そうに立っていたクリスとデーヴィスの二人を家の中に招き入れた。
 「さあ、何があったのか話してちょうだい。」
 アイリーンは三人の顔をかわるがわる眺めながら言った。

 アイリーンは、ジムがリックと決闘したと聞いても、最初は真剣に受け取らなかった。まして、ジムがリックに勝ったと聞いたときには、信じられないという顔をした。ジャッキーから、リックがどんなにひどいいじめっ子か、聞かされていたからだ。それでも、ジムがリックに頭突きの先制攻撃をかけ、そしてついに押し倒した様子を目に見えるように話すと、アイリーンは心から楽しそうに笑った。
 「それで、どうしてリックとけんかしたの?」
 アイリーンは笑い終わると、尋ねた。もっともな疑問だ。そこで、クリスがジムに代わって勢い良く答えた。
 「リックのやつがジャッキーをいじめたから、ジムは仕返しをしたんだよ。「ジャッキーの弟は黒んぼだ」なんて言いがったんだ。それで・・・」
 「やめろよ。」
 ジムの声だった。皆は、びっくりしてジムの方を見た。ジムの体は、ぶるぶると震えていた。ジムは、何かしゃべろうとしたが、言葉にならなかった。ジムの両目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれて、ほほをつたって落ちていった。
 「ごめんよ。」
 クリスがあやまった。
 デーヴィスは、握り拳をつくって、自分のひざをたたいた。それから、何も言わずにジムの足元のあたりに目を落とした。
 アイリーンは、ジムのとなりに座るとジムの肩に手をまわした。
 「まあ、まあ、ジム。かわいそうに。泣かなくてもいいのよ。」
 アイリーンは、ジムの顔をのぞき込むようにして優しく声をかけた。
  ジムはのどをひくひくと震わせながら、ますます激しく泣いた。クリスやデーヴィスが見ている前で泣くなんて、そんなこと思ってもみなかった。自分でも恥ずかしかったのだが、どうすることできなかったのだ。
 ジムは、何故泣かなければならないのかわからなかった。ジムは、クリスとの決闘に勝ったんのだ! ちゃんと、ジャッキーの仇をとったのだ! ジムは、喜びこそすれ、泣く必要はないはずだった。それでも、ジムは泣いた。激しく泣いた。抑えようと思っても、涙が止めどもなく溢れた。アイリーンが持ってきてくれたタオルも、すぐにぐしゃぐしゃになってしまったほどだ。
 でも、ジムは不思議と不快な感じはしなかった。クリスやデーヴィスに泣くのを見られているのも、そのうち気にならなくなった。ジムは、思う存分泣いた。ジムは、嗚咽しながら、何か胸の奥に今までつかえていたものが取れて行き、とてもさわやかさな感覚が体を包んでいくのを感じていた。

著者のノート
『白鯨のいる水族館』は、1994年、大学院生の時に書いた「習作」です。