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    第四章 サンフランシスコへ

 アイリーンの家で突然のパーティのあった翌日、ジャッキーは朝になると学校に行く時に持っていく黄色いかばんを持って居間にやってきた。
 アイリーンはほっとしたようだった。いくら自由な教育方針のアイリーンでも、ジャッキーが学校に行かなくなったのには少し参っていたようなのだ。ジャッキーはと言えば、いつもの朝のように何気ない顔でバタートーストを食べていた。それでも、ジャッキーは何やらもの思いにふけっているようだったが、学校に行く時間になるとお気にアイリーンに 「じゃあね」
と一声かけて出て行った。
 少し遅れて、ジムも迎えに来たクリスと一緒にフェアレイク小学校へ向かった。
 その日、五年生は午後二時に授業が終わった。ジムが家に帰ると、アイリーンがちょうどガレージから車を出そうとしているところだった。ジムが車から見えるところに立っていると、アイリーンはジムに気がついて口笛を吹いた。
 「まあ、ジム坊や、今日は早かったのね。」
 車の窓から首を出したアイリーンの顔に西日があたっている。
 「ジム坊やって言うのはやめてくれよ。小さな子供みたいで、かっこう悪いや。」
 ジムが抗議すると、アイリーンは笑った。
 「わかったわ。ジム。私、これから水族館に行くところなんだけど、あなたも来る?」
 ジムは、別にする事も無かったので、助手席に乗り込んだ。。
 水族館へと走る車の中で、ジムはそっとアイリーンの横顔を見てみた。ジムは、アイリーンといると何となく安心した気持ちになることに気がついていた。
 「もちろん、お母さんというのとは全然違うけどね」
と、ジムは心の中で言ってみた。それにしても、アイリーンはジャッキーが学校を休んだ理由や、ジャッキーがサンフランシスコに行ってミスター・スミスと会おうとしていることを知っているのだろうか。アイリーンは子供のことに余り関心がないように見える。
 「ちょっと買い物して行きましょうね。」
 アイリーンはショッピング・モールで車を止めた。ジムは、白と青のヘインズのTシャツを買ってもらった。車に帰る途中、アイリーンがジムの手を握ってきたのでジムはびっくりしたが、Tシャツを買ってもらったこともあるし、そのままにしておいた。アイリーンは、里親といっても、一応はジムの母親なのだから。

 ジャッキーは学校に再び行き始めたが、事件がこれで終わったわけではなかった。というのも、ジャッキーは家出をして、サンフランシスコに行き、アイリーンと離婚したミスター・スミス(つまり、ジャッキーのお父さんにあたるわけだが)に会いに行く決心をしたからだ。ジャッキーがアイリーンの家でこのことをジムに打ち明けたその夜、ジムはクリスの家に遊びに行ってクリスにそのことを話した。
 「何だって、急にジャッキーはそんな気になったんだい。ミスター・スミスとは、もう十年も会っていないんだろう。いくら産みの親っていったって、それじゃあ他人も同然じゃないか。」
 クリスの言うことは、いつでも大人びて、しかももっとものように聞こえる。
 「 知らないよ。でも、ジャッキーはリックにいじめられたりして、ここんところ落ち込んでいたからね。それに...」
 「それに、何だよ。」
 ジムは一瞬ためらったが、やがて肩をすくめた。 
 「それに、時々アイリーンのボーイフレンドの、チャールズっていう人が来るんだ。」 
「いい人かい? 」
 ジムは、クッションの上で座りなおした。
 「まあ、オーケーってところだな。」
 「じゃあ、いいじゃないか。わざわざ、サンフランシスコまで行くことないと思うけどな。」
 ジムは、コークを飲み干すと、勢いよくカンを置いた。
 「いずれにせよ、ぼくはジャッキーと行くよ。ジャッキーは、ぼくの姉妹だからね。」
 ジムは、「姉妹」という言葉が今度は詰まらずに言えてほっとした。
 「じゃあ、ぼくも行くよ。ジムの友達だからな。」
 クリスがウィンクした。ジムは、クリスも行くと聞いて何となくほっとした。内心、ジャッキーと一緒にサンフランシスコに行くと約束したものの、不安でたまらなかったのだ。何しろ、ジムは聖メアリ孤児院にいるときは一人ではせいぜい5ブロック先のコンビニエンス・ストアに行ったことがあるだけだったのだから。
 こうして、ジャッキー、ジム、クリスの三人の「家出」の計画がまとまった。     

 日曜日になった。とても天気の良い日だった。アイリーンは朝から水族館に出かけて留守だ。ジャッキーとジムそれにクリスの三人は、アイリーンが出かけるとすぐにジムの部屋に集合した。「家出計画」の打ち合わせのためだ。
 ジャッキーは、ジムがクリスに家出の計画を打ち明けたことを知ると、ジムに本を投げつけて怒った。しかし、やがてクリスがこの「大それた計画」を実行する上で欠かせない存在であることがわかったので、ジャッキーの怒りもおさまってしまった。
 サンフランシスコに行くといっても、どうやって行くかは、ジムにはもちろん、ジャッキーにもまったく見当がついていなかった。しかし、クリスはやはり偉大だ! クリスのおかげで、夜の九時にローズタウンを出るグレイハウンド・バスに乗れば翌日の朝の八時にはサンフランシスコのダウンタウンに着くことができるとわかった。クリスの参加で、ジャッキーの「家出計画」は急に現実的になってきた。
 「それで、グレイハウンドのバス・ターミナルまではどうやって行くの?」
 ジムがクリスに尋ねた。
 「アイリーンに送ってもらったらどうかしら。」 
 ジャッキーがクリスにウィンクしながら言った。
 「アハハハハ。とってもおもしろいよ、ジャッキー。冗談はさておき、バス・ターミナルまでは歩いて行くしかないよ。ここから三十分はかかるから、八時には出かけるんだ。」
 クリスは、まるでテレビ映画に出てくる海軍の将校のように、てきぱきと計画を決めていった。実際、今までコンピュータのマニアだとばかり思っていたけれど、クリスにはいろいろな才能があるようだった。
 問題は、お金だった。クリスは毎月かなりの額のお小遣いをもらっていたが、前にもらってから三週間経っていたので、もう余り残っていなかった。それでも、「机の中を引っかき回す」と、いくらかのお金が見つかった。ジムは、聖メアリ孤児院をでるときにもらったお金が、まだ全然使わずに残っていた。ジャッキーは、ミッキーマウスの貯金箱の中から貯金を取り出してきた。
  そうやって、三人の持っているお金を合わせると四百ドルになったので、これで十分だろうとクリスが言った。
 「よし、じゃあ、先に延ばすと感づかれるかもしれないから、即決行だ。今夜、八時にぼくはこの家の前に来るよ。アイリーンは?」
 「今晩は水族館に泊まりよ。」
 ジャッキーが答えると、クリスは満足そうにうなづいた。
 「それなら、明日の朝までは僕たちの「家出」はばれないな。よし。心がうきうきするな。すごいぞ! いよいよサンフランシスコへ突撃だ!」
 クリスは興奮して机をどすんどすんと叩いた。これでは、まるでサンフランシスコに家出してミスター・スミスに会いに行くのはクリスのようだ。

 準備をするために、クリスはいったん家に戻ることになった。クリスが帰ると、ジャッキーは台所に行って「家出」に持っていくサンドウィッチを作り始めた。ジムも居間で「シカゴ対ニューヨーク」の野球の試合を見ながら、ゆで卵をみじん切りにしてマヨネーズと混ぜ合わせた。
 「私たち、悪い子かしらね? 」
 居間のソファに座ってパンにハムやレタスをはさんでいる時に、ジャッキーは突然ジムに尋ねた。ジムは、ニューヨークの孤児院にいたワルに比べれば「家出」くらい大したことはないと思ったが、黙っていた。
 ジャッキーは、大きなため息を一つついた。
 「でも、こうやってサンドウィッチを作っていると、遠足の前の日みたいね。」
 ジャッキーは笑った。ジムは、ジャッキーの笑い顔はとてもすてきだと思った。
 「でも、そのミスター・スミスっていう人、今どういう生活しているのかな。」
 ジムはパンにバターを塗りながらひとり言のように言った。
 「明日わかるわ。でも、あなたの両親は、どこにいるかもわからないんでしょう? 」
 ジムは、ぶっきらぼうに答えた。
 「そうさ。でも、クリスのやつが、ひょっとしたら聖メアリ孤児院には両親に関する記録があるかもしれないって言ってたけどね。それに・・・」
 ジムはつけ加えた。
 「それに、ぼくの母親はアイリーンだし、姉妹は君だろ。そんな風に、なったんじゃないか。」
 ジャッキーは笑った。
 「そうすると、ミスター・スミスがあなたの父親っていうことになるわね。」
 ジムは、ジャッキーは奇妙なことを言うと思った。

 ジムは何だか変な気分だった。なにしろ、アイリーンの家に里子で来たばかりなのに、「家出」するというのだから、間が抜けた感じだ。それでも、夜になり、クリスと約束した八時が近づくと、ジムは胸がだんだんドキドキしてきた。
 居間の時計が八回鳴ったのを合図に、ジムとジャッキーは玄関のドアを開けて外に出た。クリスは芝生の植え込みのところに、ポケットに手をつっこんで立っていた。
 「出かけよう。」
 クリスの声を合図に、三人は歩き始めた。
 とても良く晴れた夜だった。満天の星空の下、空気は澄んでいて少し冷たく、吐く息が白く見えた。ローズタウンのメインストリートにあるグレイハウンドのバス・ターミナルまでは、歩いて三十分ほどの道のりだ。ジムはさっき作ったサンドウィッチやコーヒー入りのポットの入ったリュックを背負っている。ジャッキーはお気に入りの黄色いかばん、クリスはリーボックのバッグといういでたちだ。ジャッキーは一言も口をきかず、ジムとクリスに少し遅れてゆっくりと歩いた。
 ジャッキーは、ひょっとしたらアイリーンに何も言わずにミスター・スミスに会いに行くことを後悔しているのかもしれない、そうジムは思った。しかし、グレイハウンドのバス・ターミナルに着くと真っ先にサンフランシスコ行きのバスを見つけ、乗車券売り場でチケットを買ってきたのはジャッキーだった。
 「フーム。サンフランシスコまで、子ども三人ね。」
 バスの運転手さんは、ジャッキーからチケットを受け取りながら、じろりと三人の姿をにらみつけた。ジムは落ちつかなげに足元に目を落とした。クリスは、ポケットに手を入れたままとぼけた顔をしていた。ほんの数秒間だったが、気まずい雰囲気が流れた。ジムは、ヤバイと身構えた。しかし、やがて、運転手さんは手を振って「行け」という合図をしたので、三人はジャッキーを先頭に急いでバスに乗り込んだ。
 バスは空いていて、三人はそれぞれ窓際に座った。九時になってバスが動き出すと、三人はほっとしたように、ジムのリュックの中のサンドウィッチを食べ始めた。
 「楽しいね。これなら、ちょくちょく家出したいね。」
 クリスがサンドウィッチを口一杯にほうばりながら言った。バスはやがてローズタウンを出たらしく、窓の外は人家の明かりも消えて真っ暗になった。サンフランシスコに着くのは明日の朝の八時、十一時間の長い旅だ。
 ジムとジャッキー、クリスを乗せたバスは一路サンフランシスコをめざして走って行く。クリスはひざの上にカリフォルニア州の地図を広げて、バスがステーションに止まる度に、地図の上で地名を確認している。
 バスの中には、ジム達の他に十人くらいの人が乗っていた。様々な人が途中のステーションで降りたり、乗ったりしたが、中にはとても印象に残った「変な」乗客もいた。七十才くらいのおじいさんは、カウボーイハットに真っ赤なジャンパーという派手な格好で乗り込んで来て、他に席が開いているのにわざわざジャッキーの隣に座った。そして、ノース・ヴァリーという停留所で降りるまでの二時間、ジャッキーに昔海軍にいたころの自慢話をした。髪の毛をチリヂリにした黒人の若者は、ずっとウォークマンを聞いてリズムをとっていたが、時々ジムの方を見て、にやりと笑った。この人は、バスがドライヴ・インで止まった時、ジムにジェリー・ビーンズを買ってきてくれた。
 真夜中頃、「モニュメント・ヒル」という町のレストランでバスは休憩のため止まった。バスの運転手さんが大きなピザを食べているのを横目で見ながら、ジムはチーズ・バーガーを、ジャッキーはパンケーキを、そしてクリスはチリを食べた。店のかたすみにはピンボール・マシーンが置いてあって、皮のジャンパーを来たお兄さんが機械をゆすったりけったりしていた。
 ジムが覚えているのはその時までだ。いつのまにか眠っていたジムが目をさますと、もう夜が明けていて、明るい朝日がバスの窓からさんさんと差し込んでいた。バスは海岸線の道路を走っていた。ニューヨークの孤児院にいた頃も、ジムはコニー・アイランドに行ったりして海を見たことはあったが、こんなに青く、明るく輝く海ではなかった。ジムは、海面に立つ白い波を見ながら、ローズタウンで迎えた最初の朝にアイリーンと見た、水族館の前に広がる青い朝の海を思い出していた。あれは、もう、ずいぶん昔のことだった気がする。
  やがて、バスの窓から見える景色はだんだん家やビルの多いものに変わって行った。そして、高層ビルが地平線に見え始め、ジムはサンフランシスコに近づいたなと思った。サンフランシスコは、同じ大都会でもニューヨークとは随分印象が違う。ちょうど、ニューヨークの茶色のビルの壁をぶち抜いて、風通りや日当たりをよくしたのがサンフランシスコだなとジムは思った。
 バスは、朝八時、定刻きっかりにサンフランシスコのビルの谷間の、バス・ターミナルに到着した。

 サンフランシスコの街は朝日に照らされて輝いていた。バスを降り立ったジャッキー、ジム、クリスの三人は、しばらく回りの人の雑踏や、白く光るビルディングのてっぺんや、絶えることのない車の流れをぼんやりと眺めた。遠くから、船の汽笛が聞こえて来る。人口一万人のローズタウンに比べると、サンフランシスコはとてつもなく大きな都会に見えた。今まで乗っていたバスのぬくぬくと暖かい座席が、急にこの上なく安全で快適な場所であったように思われてきた。だが、三人は「家出」をして、このサンフランシスコまで来てしまったのだ。ぐずぐずはしていられない。
 「とりあえず、朝食だ。」
 クリスの言葉を合図に、三人は近くに見えていたバーガー・キングの看板に向かって歩き始めた。
 ハンバーガーとポテト、それにコークをトレイに載せて席につくと、やっとほっと一息だ。
 「ハンバーガーの味は、ローズタウンと同じだね。」
 ジムのとぼけた一言に、ジャッキーははじけたように笑いだした。
 ジャッキーは、ミスター・スミスの自宅には行きたくないと言う。そこで、ミスター・スミスの会社に行ってみることにした。
 「小さな建設会社をやっているの。「スミス建設会社」っていうのよ。」
 バーガー・キングの店内にあった電話帳で調べると、スミス建設会社はすぐに見つかった。
 「住所からすると、港の近くだな。ここから、歩いて三十分くらいで行けそうだよ。」
 クリスが、地図を見ながら言った。
 スミス建設会社には、お昼休みになる頃に行ってみることにして、三人はとりあえずバーガー・キングを出た。
 「まず、港に行ってみましょうよ。」
 ジャッキーが提案した。
 その日は、復活祭の後にしては、とても暑い日だった。港で船を見ていると、船のかたちがゆらゆらとゆがんで見えた。ジムが空を見上げると、白いかもめが青い空にふんわりと浮かんでいた。高層ビルが天を衝く中心街の方を振り返ると、誰かが離した赤い風船が、天高くどこまでも上がっていくのが見えた。
 「今ごろローズタウンでは大騒ぎだろうな。子供が三人いなくなったって。」 
 クリスは港の白いさくに寄りかかりながら言った。
 「だいじょうぶよ。ミスター・スミスに会ったら、私すぐにアイリーンに電話するから。」
 ジャッキーの黄色いかばんが、サンフランシスコの太陽を受けて、まぶしく光っている。気のせいか、ローズ・タウンで見るときよりも、もっと黄色く見える。
  「そろそろ、「スミス建設会社」に行こうか。」
 クリスが港にあった時計台を指した。十二時少し前だった。
 「スミス建設会社」は、港から歩いて十分位のところにあった。フラワー通りという名のゆるやかな坂の五十三番地にある、茶色いれんがの建物の二階がオフィスになっていた。三人は、れんがの上に小さくちょこんとのった「スミス建設会社」というプレートをしばらく見上げて、立っていた。
 「十年ぶりに、パパに会うんだね。」
 クリスがジャッキーにささやいた。ジャッキーは黙っている。
 「ジャッキーのこと、覚えているかな。」とジム。
   いつまでも誰も動こうとしないので、クリスがジャッキーの肩をぽんとたたいて言った。
 「君のパパだろ。君ひとりで会ってこいよ。ぼくたちは、あそこの本屋で待っているからさ。」
 クリスは斜め向かいにある「ワルデン・ブックス」という赤い看板を指した。その言葉を待っていたかのように、ジャッキーは少し不器用にほほえむと、「スミス建設会社」のあるビルの入り口の中へと消えて行った。ジムが最後に見たジャッキーの横顔は、こころなしか青ざめているように見えた。

 ジムとクリスはその「ワルデン・ブックス」という名の本屋でジャッキーを待った。その間、クリスはコンピュータの本や雑誌をいかにも楽しそうに読んでいた。
 クリスは、
 「こいつを見てみろよ」
とか、
 「おい、すげー新製品が出たぞ。」
とか、
 「今度のクリスマスはこいつで決まりだ」
などと話しかけてくるが、ジムは何となく落ちつかない気分だった。ジャッキーは今ごろ何をしているだろうか。ミスター・スミスには会えたろうか。ミスター・スミスは、ジャッキーを見て、喜んだろうか。二人は、どんなことを話しているのだろうか。十年ぶりに自分の親に会うのは、どんな気持ちがするのだろうか。
 ジャッキーはなかなかやってこなかった。ジムは、写真の本が並んでいる棚の前で、いろいろな写真集をぱらぱらとめくってみた。北の大地の上に舞うオーロラの写真集や、大海原を行く白いヨットの写真集が、ジムの心を引きつけた。「イギリスのバラ庭園」の写真集は、ジョージおじさんのことを思い出させた。
 しかし何よりも、「ベルーガ鯨」の写真集がジムの印象に残った。雪のように真っ白なベルーガ鯨たちが、濃い緑色の海原を群れをなして泳いで行くのだ。ベルーガ鯨が海面からジャンプしているところの写真もあった。アイリーンと水族館で見たプフとパフにそっくりの二頭のベルーガ鯨が、光の帯の中に漂っている写真もあって、「ヴァンクーヴァー水族館にて」と書かれていた。
 そのようにして一時間ほどの時間が流れた。ジャッキーがやっと本屋にやってきたのは、午後一時半を過ぎた頃だった。ジャッキーはこころなしか顔を上気させていた。クリスが
 「会えた?」
と聞くと、ジャッキーは無言でうなずいた。ジャッキーがうれしそうなので、ジムも何となく心が弾んだ。それに、ミスター・スミスはジャッキーだけでなく、ジムとクリスの二人も、今晩自宅に「ご招待」するというのだ。
 三人は、とりあえず「ワルデン・ブックス」を出た。
 「五時にここで待ち合わせなの。まだ時間があるから、どこか散歩できるわね。それはそうと、私お昼ご馳走になっちゃった。悪いわね。」
 ジャッキーの黄色いかばんに陽があたり、その照り返しがジャッキーの顔をまぶしく照らし出している。

 午後五時に、ジムとクリス、それにジャッキーは「スミス建設会社」のあるビルの入り口の前に立った。十分くらい待っていると、中から灰色の背広を来た、体の大きな男の人が出てきた。ミスター・スミスだ。ミスター・スミスはジャッキーに向かって
 「やあ」
と手を振ると、ジムとクリスの方に向かって手をさしのべた。ジャッキーが、
 「こちらがジムで、こちらがクリス」
と二人を紹介すると、ミスター・スミスは 
 「やあ、ジム。やあ、クリス。」
といってひとりひとりとがっちりと握手した。ジムは、まるでテレビのトーク・ショウに出てくる司会者のようだと思った。ミスター・スミスの手は、とても大きく、力強かった。
 ミスター・スミスの車は近くの駐車場にとめてあった。ずいぶん長い、白いすべすべした車だった。ジャッキーがミスター・スミスのとなりに乗って、ジムとクリスは後ろの座席に座った。ミスター・スミスは
 「ちゃんとシート・ベルトをするように。」と言って、全員がベルトをつけ終わるのを待ってから車を出発させた。
 ミスター・スミスの車は、サンフランシスコの港通りのなかを抜け出ると、ゴールデン・ゲイト・ブリッヂ(金門橋)を渡った。車は、それから美しい海岸線を走り、窓からは太平洋に真っ赤で巨大な夕日が沈む光景が見えた。
  「アイリーンには君達がここにいると電話しておいたからね。まあ、今晩は私の家に泊まって、明日の朝のバスで帰るといいよ。」
 車の中でしゃべったのは、ミスター・スミスばかりだった。ミスター・スミスは車の中から何か変わったものが見えると、ジムたちが興味を持つようにわかりやすく説明してくれた。ただ、
 「家出をしてくるなんてとんでもない子どもたちだな。」
と何回も繰り返すのにはまいった。
 車は、夕日がちょうど水平線に沈む頃、海の見える丘にある、静かな住宅地の中の一軒の家の前で止まった。夕闇のなかにぼんやりと白く浮かぶ家の回りには、小さな赤い花がいっぱい咲いていた。鉛色のガラス窓の向こうには、天井からぶらさがった照明がウイスキー色の暖かい光を出しているのが見えた。
 「さあ、子供たち、着いたよ。ここが終点だ。」
 ミスター・スミスは、自分に聞かせるようにやさしく口笛を吹きながら、ゆっくりと車をガレージの中に入れて行った。
 ミスター・スミスは家のドアを開け、子供たちを招き入れた。最初にクリスが、次にジャッキーが、最後にジムが入った。ミスター・スミスが大声で呼ぶと、茶色のウェーヴのかかった髪の毛の女の人と、五、六才くらいの男の子が出てきた。男の子は、茶色の髪の毛の女の人の後ろに半分隠れて、目を大きく開いてジムたちの方を見た。
 「私の妻のレイチェルと、息子のダニエルだ。レイチェル、この子がジャッキーだよ。それと、ジャッキーの弟のジムと、友達のクリスだ。」
 ミスター・スミスは、
 「これでいいんだよね。」
というように、ジムの方をみてウィンクした。レイチェルはにこにこ笑いながら、ジャッキー、ジム、それにクリスを一人一人、ゆっくりと時間をかけて見た。余り長く見るので、ジムはドキドキしたほどだ。それから、
 「いらっしゃい。夕食の支度ができているわよ。」
と言うと、ジャッキーたちを奥のダイニング・ルームの方へ招き入れた。
 ダイニング・ルームの床は格子細工の板で張られていた。部屋のあちらこちらにシダやゴムの木、蘭、ベンジャミンなどの植物の鉢が置かれていて、植物園の中のようだった。
 夕食のメニューは豚肉とブロッコリの炒めもの、かぼちゃのスープ、レイチェルが自分で焼いたライ麦パン、それにとびっきりおいしいチョコレート・ババロアだった。
   おかしなことには、ダニエルはジムのことがとても気に入ったようだった。夕食の時も、
 「ぼくここがいい。」
と言ってジムのとなりに座った。ダニエルもメジャー・リーグの野球が好きだということがわかったので、ジムはダニエルに野球の話をしてあげた。ダニエルは、もちろんサンフランシスコ・ジャイアンツのファンで、ジャイアンツの帽子を取り出してきてジムにかぶせた。ジムは笑って、自分はニューヨーク・メッツのファンなんだと言った。
 「ふうん。おにいちゃん変わっているね。サンフランシスコにいるんだから、ジャイアンツを応援しなくちゃダメだよ。」
 ダニエルは不満そうだ。ジムは、ニューヨークの孤児院にいたときのことを話そうと思ったが、ダニエルのくりくりとした目を見て、やめた。こんな小さな子に、「孤児院」といってもわかるはずがない。もっとも、ジムはダニエルの年の頃には、もう孤児院の「ベテラン」だったわけだけれども。
 夕食が終わり、ジムとジャッキー、それにクリスは居間のソファに移ってミスター・スミスの話を聞いた。ミスター・スミスはビルの設計の仕事をしていて、今ジムたちのいる家も自分で設計したということだった。
 「なぜ、アイリーンと離婚したのですか。」
 このようなときに必ず大人びたことを言うクリスが、突然そんなことを聞いたので、ジムはどっきりした。大体、ジャッキーもいるというのに、クリスは少し無神経だ。ミスター・スミスはちょっとびっくりしたような顔をしたが、やがてクリスの方を見ていたずらっぽく笑った。
 「君だな。この家出の細かい計画をたてたのは。」
 クリスは、悪びれずに
 「まあそうです」
というようにうなずいてみせた。ミスター・スミスは、それから真顔になると、ジャッキーの方を時々見ながらい言った。
 「まあ、おたがいに誤解してしまったんだと思うよ。私は、アイリーンが私のことを捨てて仕事ばかりしていると思った。なにしろ、船に乗って南極に鯨の調査に行くっていうんだ。しかも、一年もね。ジャッキーが、まだおむつをしている頃だったな。逆に、アイリーンは私が彼女の仕事に理解がないと思ったんだね。今になって考えてみると、バカなことをしたと思うよ。」
 気がつくと、いつの間にかレイチェルが居間の入り口にたって、真剣な顔をして、静かに聞いていた。
 その夜、ジムはなかなか寝つけなかった。すぐに眠ってしまったクリスの寝息を聞いていると、ますます眠れない。ジムは、思い切って起きあがると、トイレに行くことにした。
 トイレは居間の横にあった。気がつくと、居間に明かりがついている。それに、誰かの声のようなものも聞こえてくる。ジムは、そっと居間の中をのぞいてみた。
 ソファに、ミスター・スミスとジャッキーが座って、何か話していた。ジャッキーは、泣いているようだった。ミスター・スミスが、ジャッキーを肩を優しく抱いて、ジャッキーの顔をのぞき込むようにしていた。
 ジムははっとした。見てはいけないものを見てしまったような気がした。ジムは、二人に気がつかれないようにそっとトイレを済まして、自分の部屋に戻った。

 翌朝、ジムが目をさますと、もうクリスは部屋の中にいなかった。あわてて食堂の方へ行ってみると、ジャッキーとクリスはテーブルについてトーストを食べていた。
 ジムも顔を洗って、クリスのとなりに座った。ダニエルが、眠そうな目をこすりながら起きてきて、ジムを見るとにっこり笑った。食堂には朝日が差し込んでいて、昨日は気がつかなかったけれども、窓からは青い太平洋が見えた。
 ミスター・スミスが、背広にネクタイ姿で出てきた。ミスター・スミスは、ジムたちひとりひとりに笑顔であいさつすると、ジャッキーのとなりに座った。ジムは、やっぱりテレビのトーク・ショウの司会者のようだと思った。
 ミスター・スミスはジャッキーにもう一晩泊まって行くように勧めた。しかし、ジャッキーはどうしても今日帰ると言い張った。
 「いいのよ、パパ。もう、帰らなくちゃ。アイリーンにも、余り心配かけたくないし。」
 ジムは、ジャッキーがミスター・スミスのことを「ミスター・スミス」と呼ばず、「パパ」と呼ぶのを聞いてちょっとびっくりした。そして、すぐに昨日の晩のことを思い出した。
 朝食も終わる頃、電話がなった。ミスター・スミスが受話器をとった。
 「ジャッキー、君へだ。アイリーンからだよ。」
 ジャッキーはジムの方を見てペロリと舌を出すと、電話の方にかけて行った。ジャッキーはそれから五分くらい話していたが、ジャッキーは
 「うん。」
とか、
 「そう。」
としか言わないので、何をしゃべっているのかわからなかった。
 「怒られた? 」
 電話を終えてテーブルに戻ったジャッキーに、クリスが尋ねた。
 「ううん。全然。グレイハウンドのバス停の近くに、おいしいパン屋さんがあるから、おみやげにクロワッサンを買ってきてだって。」
 ミスター・スミスは、それを聞いて大声で笑った。
 「それは、とてもアイリーンらしいね。」
 ダニエルを抱いたレイチェルも笑っていた。
 いよいよお別れだ。レイチェルはジャッキーのことを抱きしめると、テディー・ベアの大きな縫いぐるみをプレゼントした。ダニエルはジムにサンフランシスコ・ジャイアンツの選手の野球カードをくれた。
 ミスター・スミスは三人をバス・ターミナルまで送っていってくれた。ミスター・スミスは、バス・ターミナルにつくと、アイリーンが電話で言っていたパン屋に三人をつれて行った。そして、クロワッサンのほかに、バスの中で食べるようにと、とてもおいしそうなローストビーフ・サンドウィッチを買ってくれた。

 ジムたちがパン屋を出てきたときのことだ。ふと空を見上げたクリスが、あっと声をあげて、上の方を指した。その方角を見上げたジムも、あっと叫んだ。飛行船だった。大きな、黄色い「コダック」と書かれた飛行船が、ビルの林の上に浮かんでいたのだ。
 飛行船は、ゆっくりと旋回しているところだった。耳を澄ますと、「ぶるるるる」と、エンジンの音が聞こえてきた。信じられないくらい青く澄みきった空の中に、黄色い飛行船はまぶしく輝いて、浮かんでいた。まるでジャッキーのかばんのような、しみるような黄色だ。ジムの目は、初めて見る本物の飛行船にくぎ付けになった。通りを忙しそうに通り過ぎていく人たちが、飛行船のことなど気にもとめないのがジムには不思議でならなかった。
 「ぼく、将来飛行船のパイロットになるんだ。」
 気がつくと、ジムはそうつぶやいていた。ジムは、自分で自分の言葉に驚いた。そんなことは、思ったこともなかったからだ。だが、「飛行船のパイロット」という自分の口をついて出た言葉は、ジムの胸の中に何か今までに感じたことのないような弾むような気持ちを沸き上がらせていた。ジムは、胸がドキドキした。今にも、バスケットボールを持ち、思いきりジャンプして、飛行船くらいの高さにあるゴールへ入れたいような気分だった。
 「ぼくは、コンピュータ会社の社長になるんだ。」
 クリスが言った。クリスの目は、ジムと同じように飛行船に釘付けになっている。
 ジャッキーは、何も言わずに、飛行船を見上げていた。ミスター・スミスは、まぶしそうに目の上に手をかざしている。

 ミスター・スミスはバスが来るまでいてくれた。バスが来ると、ミスター・スミスはジャッキーを思いきり抱きしめて、ほっぺたにキスをした。
 「今まで、連絡をとらなかったのがおかしいんだ。これからは、たびたび遊びに来てほしいし、こちらからも連絡するよ。」
 そのような意味のことを、ミスター・スミスは言った。ジャッキーは、ミスター・スミスの手をしっかりと握っていた。
 やがて、時間が来て、ジムとクリスはバスに乗り込んだ。ジャッキーは一番最後に、テディー・ベアのぬいぐるみを抱えて乗り込んだ。
 バスに乗ると、ジャッキーはすぐに席に座って、テディー・ベアのぬいぐるみで顔を隠してしまった。そして、バスが動き出してジムとクリスがミスター・スミスに手を振っている間も顔を隠したままで、ミスター・スミスを見ようとはしなかった。

著者のノート
『白鯨のいる水族館』は、1994年、大学院生の時に書いた「習作」です。