ロンドンを訪れた人が、必ずと言ってよいほど立ち寄るのが、大英博物館(BritishMuseum)である。グレート・ラッセル・ストリート沿いの正面入り口に立つと、巨大な建物が前にそびえている。入場料がただというのもしゃれているし、天井は高いし、収蔵品は世界史の第一級のものばかりだし、非常に印象的な施設であることは間違いない。

 しかし、英国生活の達人は、大英博物館を楽しみこそすれ、それを崇めてはいけない。何よりも重要なことは、大英博物館を前にして威圧されたり、圧倒されたりしないことである。そして、見終った後も、「さすが大英帝国の栄光だ」などという感想を吐いてはいけない。何故ならば、この大英博物館は実は大「英」博物館ではないからだ。この美術館は、大「ギリシャ」博物館なのであり、大「ローマ」博物館なのであり、あるいは大「中国」博物館であり、大「イスラム」博物館なのだ。この博物館には、「イギリスもの」では、見るべきものはほとんどないのだ。実際、この博物館にある「イギリスもの」で見るべきものと言えば、「リンドーの男」と呼ばれる、古代の不幸な男の遺体が、皮や髪の毛まで残って発見されたという趣味の悪い展示だけなのである。

 

 

 

 

 しかし、ここでイギリス人の名誉のために一言付け加えておけば、彼らは、大英博物館が実は大「英」博物館ではないことを、よく分かっている。しかも、それをユーモアをもって認めるだけの度量を持っている。実際、博物館内のミュージアム・ショップには、「エジプト」「ギリシャ」、「ローマ」「中国」などと書かれた看板の前に立った観光客が、「何故大「英」博物館と言うのかわからない」と首をひねっているTシャツが売られているくらいである。

 このように、全くその名が体を表していない大英博物館ではあるが、我々は、この施設をつくったイギリス人に感謝しなければならない。いまやアテネの大気汚染の前に崩壊寸前になりつつあるパルテノン神殿の彫像や、エジプトの砂漠に埋もれていたロゼッタストーンや、数多くの盗掘を逃れたエジプトのミイラを素晴らしい保存状態で見られるのは、イギリス人の管理能力のお蔭なのである。ただ、悲しいことに、価値のある美術品を創り出す能力と、それを管理する能力は、なかなか一つの国民の中には両立しないのであるが!

 

 あなたがもしヨーロッパの文化について通り一遍以上の理解をしようとすれば、ヨーロッパの文化というものは、麻薬に頼ることなく合法的にトリップするために存在するということを理解する必要がある。実際、ヨーロッパの古典音楽は、その良質のものほど、集団でトリップするためにつくられたのだ。例えば、モーツァルトの音楽は、生まれつき頭がトリップしている人間が、他人がトリップするのを容易にするためにつくった合法的ドラッグなのである。

 大英博物館という施設も、要は、世界中から精神的なトリップに適した文化的遺産を集めてきたものと理解すれば良い。

 大英博物館に入ったら、まずは、ぼんやりと歩いてみよう。そして、もし興味を惹くものがあったら、「おやっ」と立ち止まって見る。その際重要なことは、説明を読まないことである。とにかく、文様であれ、何であれ、本物を自分の網膜にしっかりと焼き付けるということが重要なのである。こうして、あなたの精神は、知らず知らずのうちに視覚を通して「トリップ」して行く。

 プロレスファンは、是非パルテノン神殿のケンタウルスとラピス一族の戦いの場面を見に行くと良い。この一連の彫像は、ラピス一族の婚礼の場に招かれたケンタウルス(上半身が人間で、下半身が馬の怪物)が、酒を飲みすぎてラピス一族の男達と喧嘩になり、ついにはラピス一族の男達を倒して、花嫁をさらっていってしまうという愉快なエピソードを描いたものである。馬の腹部の血管や、筋肉の筋まで解剖学的な正確さで描いたこの彫像群は、まさに美術史上の傑作というべきものであり、これでトリップできなかったら、あなたは「英国生活の達人」になる資格がない。

 ケンタウルスとラピス一族の戦いの場面と並んで、大英博物館の収蔵品の中の傑作といえるのが、古代アッシリアの「ライオン狩り」の浮き彫りである。何よりも、ライオン狩りをしている人間の顔が、全て無表情で、全く同じように見えるのがよい。まるで、近代的な個人などくそくらえで、人間は皆同じだと主張しているようだ。

 妙なものが好きな人は、女性が逆立ちしているマーク(♀)が幸運の印であるという、古代エジプトのパピルス文書を探してみよう。因みに、古代エジプトのパピルスに描かれた象形文字をじっと眺めていると、本当に精神がどこか遠くへ飛んでいってしまうように思われるから不思議である。

 意外に見落とされがちなのが、日本の古文書が展示されているセクションである。ここには、日本国内にさえ存在しない、あるいは、存在してもそれほど気軽に見ることのできない「古事記」や「日本書紀」、それに「源氏物語」などの最古、最良の写本が、薄いガラス一枚の向こうにさりげなく展示されている。この展示は、日本の文字、とくにひらがながどのような美意識に基づいて造形されたものであるかということを遠い異国の空の下で思い起こさせてくれる。

 最後に、「英国生活の達人」は、大英博物館の表口(グレート・ラッセル・ストリート)からでなく、比較的知られていない裏口(モンターギュ・プレイス)から入るべきである。そして、入り口で「読書室」に行くのかと聞かれたら、「イエス」と答えよう。この「読書室」こそ、かのカール・マルクスが「資本論」と言う百年間ばれなかった偉大な嘘を書いたところなのである。何れにせよ、あなたが「読書室」に行くと言えば、大英博物館の裏口側にはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンがあるので、そこの学生と勘違いされること請け合いである。もっとも、あなたがそう言いながら右手にしっかりとカメラを握りしめていたりすれば台無しだが。

英国生活の達人.png


(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)