*ごんべえが種まきゃカラスが突っつく。


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 ロンドンは、言うまでもなく、かっては大英帝国の首都であり、現在はヨーロッパの外れの一国家の首都である。ロンドンという街の表情を豊かにしているのは、まずは、何といっても街の中心を流れるテムズ川だ。実際、水辺の安らげる空間があるということは、一つの都市を魅力的にするために是非とも必要なことであり、今日の東京の都市としての魅力が今一つなのは、東京においては(浅草の界隈を除いては)川が殆ど死んだ状態になっていることによるのだ。

 さて、このテムズ川にかかる橋の上で、ロンドンの風景を楽しんでいるとする。ふと、橋の下の川面をのぞき込んだときに、もしそこに水鳥がいたとしたら、それはとても愉快な遊びをする絶好のチャンスだ。もし、あなたがイギリスに着いたばかりで緊張しているとしたら、是非この遊びをして緊張を解きほぐすべきだ。

 遊び方はこうだ。テムズ川の橋は、川面から随分高い所にかかっている。従って、その川面にいる水鳥は、橋の上から見ると、「遥か下」の方に見下ろすことになる。その「遥か下」に見える水鳥に向かって、あなたは餌を投げるのだ。パンくずでも、ポテトチップスでも、何でも良い。あなたのコントロールが十分良ければ、餌は水鳥の近くの水面に落ちるだろう。すると、水鳥は、何だかわからないけれどもいきなり水面に餌が現れたので、あわててぱくつくことになる。頃合を図って、再び餌を投げる。すると、水鳥は何だかわからないけれども再び水面に餌が現れたので、あわててぱくつくことになる。こうして、あなたが餌を投げる→水鳥は何だかわからないけれどあわててぱくつくということが繰り返されることになる。ここに、「ごんべえが種まきゃカラスが突っつく」という古典的な図式が再現されるわけである。

 このゲームのみそはこうである。水鳥から橋までの距離は余りにも遠いので、水鳥は、まさか水面に餌が突然表れる理由が、遥か上の橋の上にあるとは思わない。従って、水鳥にとっては、テムズ川の水面に突然餌が現れる理由が、全くわからない。わからないが、とにかく餌が次から次へと現れるので、本能に従ってぱくつくことになる。水鳥にとっては、まるで「奇跡」のようなことが起こるわけである。

 このようにして、あなたはロンドンの水鳥に「奇跡」をもたらす日本人になれる。これは、「英国生活の達人」にとって、極めて重要なエキササイズである。何故ならば、「英国生活の達人」とは、究極のところ、イギリスに「奇跡」をもたらす日本人のことに他ならないからである。

(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)