トリープシェンにて

茂木健一郎


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 「私は、芸術家として、どうも才能に恵まれていない気がする。」
 リヒャルトが、またもや自己嫌悪と自信喪失の発作に襲われたのは、ジークフリート第三幕の作曲を開始するための精神的な準備をしていたある日のことであった。リヒャルトは、長い中断の後にこの生涯の大作に戻るためのいわば指ならしをするために、第二幕の幕切れ前にジークフリートが鳥に導かれてブリュンヒルデの眠る岩山へと向かう部分を再び思念の中に呼び起こす試みをしていたのだ。ところが、実際に始めて見ると、トリスタンとマイスタージンガーで人間の様々な感情の織りなすふくよかな稜線をたどってきた後では、ニーベルングの指輪の中の人物の巨大な感情があまりにもつくりものめいたものに感じられるのであった。全ての人間的スケールの存在を押し潰すかのようにのしかかる北欧的な冷酷な天上の空気が、現在リヒャルトの住まうトリープシェンの暖かく家庭的な雰囲気にはどうにもそぐわず、リヒャルトは緩慢に苛立たせられたのだ。
 「リヒャルト、何を言うのです。あの、奇跡としか言いようのない『トリスタン』の後で、貴方は、さらに、『マイスタージンガー』という思いもかけない形で喜劇に高貴な精神性を持たせることに成功したではないですか。貴方が、音楽家としての才能に思い患うことがあるとすれば、それは、貴方が創り出そうとしているものが、単なる音楽などではなく、音楽以上の何かだからです。これまで構想され、作曲され、演奏されてきた音楽は、音楽以上の何者かになろうとする、過渡期の形態に過ぎないのです。リヒャルト、貴方は、『ジークフリート』で、もう一度、そのことを世界に向かって示さなければならないのではないのですか?」
 コジマは、そう言いながら、リヒャルトの背中をやさしくなでた。コジマは、リヒャルトを自信喪失から回復させるためには、理屈だけではなく、皮膚感覚を通しての慰謝が効果的であるということを経験的に知っていたからである。コジマのリヒャルトへの言葉は、論理的で、筋が通っていた。もっとも、その内容のほとんどは、リヒャルト自身が、過去にコジマに言って聞かせた内容に過ぎなかったが、リヒャルトはそのようなことは忘れてしまったかのように、コジマの言葉に心を動かされ、涙を流した。芸術家の凍り付いた創造性を溶かすには、涙を流させるのが一番だ。
 「コジ、実際、私は、お前なしではやっていくことはできない。私は、未だかって、ある一人の人間をこれほど必要としたことがない。私がこれから創り出すものは、その音符の一つに至るまで、コジ、お前との共同作業の結果なのだ。」
 リヒャルトの真情溢れる言葉に、コジマもまた涙を流した。そのようにして、二人に一種の浄化の瞬間が訪れたが、二人は実際このような感情の動きを意図的に制御できるほど知的であったのだし、二人の関係に一種の演劇性があったとしても、それは二人の間の愛情の真実性を曇らせるものではなかった。
 やがて、浄化の時間が去り、リヒャルトはジークフリート二幕の総譜に目を通し始めた。そうなると、リヒャルトはコジマの存在をすっかり忘れてしまって、見向きもしないのであった。コジマは、なお、リヒャルトが一瞬でも自分の方を見るかと、ピアノのそばの椅子に腰掛けて待ったが、リヒャルトは深い没入の状態に陥って、コジマの存在を世界から消してしまった。そこでコジマはすっかり安心して、何か暖かい飲物でも作ろうと台所へと向かった。
 その日の夜7時ごろ、子供たちを寝かしつけるたコジマは外に出てみた。トリープシェンの周囲は、今までに見たことがないほど美しい光景に溢れていた。全てのものが青い、そして銀のような光に照らし出されていた。空には月と星が輝き、湖の水は月光を受けてきらめき、遠くの山々までがうっすらと光を発していた。全てのものが明るく晴れ晴れと、魔法のヴェールをかけられたようであった。
 「リヒャルトが音楽の中に掴みとろうとしている宇宙の神秘よ!」
 コジマは愛の死を迎えるイゾルデのように、虚空に向かって手を差し延べると、書斎からリヒャルトが弾くピアノの旋律が洩れ出てくるのを聞いて深い喜びのため息をついた。

 3年前の1月、ミンナの死の知らせを最初に受け取ったのは、夫ハンス・フォン・ビュローとともにミュンヘンにいたコジマだった。心臓を患ったミンナは、ドレスデンで療養を続けていた。死の前日、ミンナは、調子が良さそうに見えた。付添いのナタリーも、ミンナの様子に特に変わった点を認めなかった。しかし、次の朝7時にナタリーがミンナの寝室を訪れたときには、ミンナはすでに死亡していた。ミンナの上半身はベッドからはみ出し、口からは泡が吹き出していた。死亡推定時刻は午前2時頃であった。寝室の窓は開けられ、ミンナが苦しみの中で新鮮な空気を求めた形跡が見られた。主治医のプジネリはリヒャルトの居場所を知らなかったので、取り敢えずミュンヘンのコジマ気付で電報を打った。
 「貴方の奥様は、昨夜お亡くなりになりました」
この電文を、コジマはマルセイユにいたリヒャルトに転送した。それを受け取ったリヒャルトの心理がどのようなものであったかについては、世間では様々な意地悪な憶測が行われた。リヒャルトとコジマはすでに夫婦のように生活していたのだから、そのような世間の風評も仕方がないとは言えた。とにもかくにも、リヒャルトはさっそくプジネリに対して、妻、ミンナを丁重に葬るよう指示する電文を送った。しかしリヒャルト自身は、3日後ドレスデンで行われたミンナの葬儀に出席することはなかった。
 ミンナという障害がなくなった以上、コジマとリヒャルトの関係がより深いものになるのは、避けられない運命の流れであった。そして、今や、湖の清澄な水に向かってゆったりと傾斜していく緑の丘の上に立つ美しい邸宅トリープシェンは、リヒャルトとコジマにとっての全世界となったのである。
 リヒャルトがトリープシェンを最初に目にしたのは、「自伝」の口述と「マイスタージンガー」の第一幕の作曲のために滞在していたローザンヌから、コジマとともにベルンへと出かけた帰りのことだった。ミンナの死からは2カ月が経過していた。その家は、ルツェルンの街から程良く離れた、湖のほとりに建っていた。リヒャルトとコジマは一目見てその環境が気に入った。その場所でこそ、リヒャルトが落ち着いて仕事のできる平穏と静寂が得られるように思われた。実際、リヒャルトは深刻に休息を必要としていたのである。ただ唯一の問題は、その邸宅が、人が住むためにはかなり大幅の修理が必要な状態にあることであった。
 「私たち全員にとって、十分過ぎるほど大きな家だ!」
リヒャルトは霊感を受けたように叫んだ。傍らに立つコジマにとって、「私たち全員」というのが誰を指すのかはそれ以上言われるまでもなく判っていた。コジマは、トリープシェンの現実の姿よりもその湖に映った虚像の方により心を惹かれて、リヒャルトの肘の部分の衣服のたるみに軽く手をかけて、リヒャルトの霊感に沈黙で応えた。
 コジマはリヒャルトの音楽上の弟子でもある夫ハンス・フォン・ビュローとの間に二人の娘、ダニエラとブランディーネをもうけていた。もう一人の娘イゾルデは、リヒャルトの子供であった。もっとも、法的にはハンスとの結婚は解消していなかったから、イゾルデは、ハンスとの子供イゾルデ・フォン・ビュローとして届けられていた。コジマは、リヒャルトと晴れてトリープシェンに住むことを、どんなに熱望したことであろうか! しかし、コジマがリヒャルトとトリープシェンに堂々と住めるようになるには、まだまだ紆余曲折が予想された。特に懸念されたのは、コジマの父の著名なピアニスト、作曲家のフランツ・リストが、離婚を認めない敬虔なカトリック信者であるということと、リヒャルトのパトロンであるバイエルン国王ルートヴッヒ二世があまりにもナイーヴであるということであった。しかしコジマとリヒャルトの心の絆は堅く、それはハンスや、リスト、ルートヴィッヒ2世に対する気遣いや気がねを超えて、二人の人生のもはや動かし難い核となっていた。リヒャルトとコジマは、リヒャルトの作品の中のヒーローやヒロインのごとく、その愛に殉ずる覚悟ができていたのだ。そうすることが、周囲の人々に対していかに不当で過酷な苦しみをもたらすことになろうとも。
 リヒャルトが大幅な改修の後にトリープシェンに居を定めたのは1866年4月のことだった。それから2年半後の1868年11月16日、コジマは夫ハンスの元を最終的に去り、トリープシェンに移り住んできた。コジマがこの行動を実現するために払わなければならなかった犠牲は、彼女の神経の安定を危うくするものであったが、そのような全ては、彼女がその天才に心酔する小男リヒャルト・ワグナーのそばで暮らすためならば、とるにたらないことであった。それに、このようなコジマの行動は、結局は父フランツ・リストから受け継いだ芸術家の血のなせる業と言わざるを得なかったのだ。この年月の間に、コジマは、リヒャルトとの間に二人目の娘エヴァをもうけていた。法的にはハンスとの子供、すなわちエヴァ・フォン・ビュローとして届出された。コジマは、トリープシェンに移り住むにあたって、取り敢えずリヒャルトとの血が繋がった娘二人だけを連れてきた。ハンスとの間に生まれた二人の娘は、ミュンヘンに残された。
 そのような二人にとっての運命の結託の年が開け、1869年になった。畢生の大作、「ニーベルングの指輪」の作曲に取り組むために必要な平穏の境地をリヒャルトはやっと得ることができたのだ。3月1日、リヒャルトは12年間中断していた「ジークフリート」第3幕の作曲を再開した。この長い中断の歳月の間に、「トリスタンとイゾルデ」、それに「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の2つの作品が世に送り出されていた。
 ようやく、リヒャルトという新しい太陽のもとに身を寄せることのできたコジマだった。しかし、コジマには一つの大きな願いが残っていた。それは、ハンスの元に残してきた二人の娘をトリープシェンに呼び寄せることであった。
 「ジークフリート」の作曲が再開された日、コジマは、夫フォン・ビュローとともにミュンヒェンにいるブランディーネに手紙を書いた。
 「リヒャルトおじさんはブリュンヒルデの眠りをいよいよ覚ましにかかりました!」
 コジマは、ハンスとの間の二人の娘も、リヒャルトの影響下で育てられるべきだと考えていたのだ。たとえ血が繋がっていないにせよ、リヒャルトからの有形無形の贈物を受け取ることは、二人の精神的養育にとって有益であるはずであった。それは、女としてのコジマのしたたかで冷徹な計算であった。
 ダニエラとブランディーネがようやくトリープシェンにやって来たのは4月8日のことであった。今やリヒャルトとコジマ、それに四人の異父姉妹の一家6人がそろってトリープシェンで暮らすことができるようになったのである。
 しかし、ワグナー家の経済状態を脅かす、恐ろしい黒雲があった。リヒャルトのパトロン、バイエルン王ルートヴィッヒが、怒りの余り、リヒャルトに与えた年金を打ち切るのではないかという恐れである。
 「そうすれば、私とコジマと4人の子供は、パリの屋根裏部屋に暮らさなければならなくなるだろう。小さな居間が一つに小さなベッド・ルームが二つで、そこに一家6人が住まなければならない。いや、実際そうならないという保証はないのだから。どのような運命が私たちを待っているかわかりはしないよ!」
 リヒャルトは半ば冗談で、そして半ば本気で心配して、そのようなヒステリーじみた声を上げた。再び窮乏するのではないかという恐れは、リヒャルトにとって殆ど強迫観念となっていたのだ。コジマは笑った。リヒャルトと一緒ならば、そのような生活の可能性も、まるで深刻な懸念には思われなかったのだ。むしろ、リヒャルトは、現在のような平穏で静かな満ち足りた生活の中にも、何等かの不安の兆候、青空に微かに現れた黒雲の兆を見いださないではいられないからこそリヒャルトらしいのだ、そのようにコジマには思われた。
 一方、コジマは、ハンスの妻フォン・ビュロー夫人であるという世間体を繕わなければならない二重生活には辟易していた。そのような希望を表明することはコジマにとっては胸を締め付けられるほど赤面の行為であったが、ハンスと正式に離婚し、リヒャルトと晴れて夫と妻の関係になることがコジマにとっての望みであった。そうすることは、コジマにとって、不死の殿堂に名を連ねる絶対唯一の方法であるように思われたのであった。天才的な演奏家を父親に持つコジマにとって、天才こそが人間に求められる標準なのであり、自分には、そのような天才を良い方向に導くよう影響力を行使する能力があるように思われたのである。
 
 その頃、リヒャルトとコジマはまだ知らなかったが、二人の引力圏に一つの大きな彗星が引き付けられようとしていた。そしてこの彗星は、その後長い年月にわたって二人の周りをぐるぐる回り、ついに人類にとっても未知の暗闇の中に飛び去っていくまで、リヒャルト・ワグナーという巨大な惑星をさえもその作用の中に巻き込み、揺るがすことになるのであった。
 古代ギリシャを専門とする若き文献学者、フリードリッヒ・ニーチェがトリープシェンを初めて訪れたのは、1869年5月17日のことであった。リヒャルトは、フリードリッヒを、出版業者ブロックハウスの紹介で知ったのだが、フリードリッヒは、将来を嘱望された文献学者で、リヒャルトの作品を完全に理解しているとの触れ込みであった。フリードリッヒは実際、大学での講義でリヒャルトの「オペラとドラマ」を引用したことがあるということであり、この時、弱冠24才であった。
 フリードリッヒは、食事の前のお祈りの時の神経質な振舞いで、まずワグナー家のメイドの注意を惹いた。この時以来、メイドはフリードリッヒの来訪を楽しみにするようになった。フリードリッヒが来ると、メイドはキッチンに引っ込んだ後、「またあの天才気違いの先生が来た」とうわさ話で時間を潰せるからであった。実際、フリードリッヒの振舞いは、いかにもぎこちなく自意識過剰であった。それでもコジマは、この深刻な顔をした若者に好意を持った。コジマには、フリードリッヒは、五月の青空のように素晴らしく筋の良い人間のように思われたからである。コジマは、あらかじめ、キッチンに念入りに料理したものだけを出すように言いつけておいた。フリードリッヒが、胃を悪くしていると聞いていたからである。
 この、フリードリッヒとリヒャルトの最初の会食は、あまり印象に残るものではなかった。何しろフリードリッヒは食事中三回もフォークを落すほど緊張していたし、リヒャルトも、終始不機嫌だったからである。
 フリードリッヒは、リヒャルトがちょっと席を立った隙に、コジマにささやきかけて来た。
 「先生はどうなさったのでしょう。今日は、考え込んでいらっしゃるように見えますが。私が何かまずいことを言ったのでしょうか。」
 コジマは、軽く片目を閉じて言った。
 「そんなことはないですよ。リヒャルトは貴方のことが大変気に入っているのですから。ただ、今朝の作曲の仕事があまり満足の行くように出来なかったので、そのことを気に病んでいるのでしょう。」
 フリードリッヒはリヒャルトの作曲の内容に興味を持ったようだった。
 「先生は、何を作曲していらっしゃるのですか。」
 コジマは、重大な秘密を打ち明けるようにフリードリッヒに言った。
 「ジークフリートの第三幕よ。」
 フリードリッヒは、すでにその音楽の一部を聴いていた。彼が、二日前の土曜日にこのトリープシェンの門の前に立っていたとき、ちょうど、「ジークフリート」第三幕におけるブリュンヒルデのモノローグの和音が繰返し、繰返し清澄な空気の中へと流れ出していたのである。

 私を目覚めさせた人が、私を傷つけたのです……私を目覚めさせた人が、私を傷つけたのです……私を目覚めさせた人が、私を傷つけたのです

 その夜フリードリッヒは夢を見た。フリードリッヒは、再びトリープシェンの門の前に立っていた。フリードリッヒは、目がくらんでいた。トリープシェンの中から、虹色の炎が外に向かって吹き出していたのだ。その炎は、不思議なことに少しも熱くなく、むしろ極地方の氷のような冷んやりとした肌触りをもっていた。フリードリッヒは、その光の柱を見ながら、呆然として立ち尽くしていた。フリードリッヒの夢の内容は、ただそれだけであった。その夢は、まるで一幅の絵画のように動きもなく、ただ、虹色の炎の持つ妖しげな魅力だけが、フリードリッヒの意識に残った。目覚めは爽快なものであった。フリードリッヒは、最近ではかってないほど心身ともに充実して、トリープシェン訪問の翌朝を迎えたのである。

 私は、永遠であった。
 私は、永遠である。

 フリードリッヒは、昨日、リヒャルトがこの辺りまで作曲したとコジマが教えてくれた「ジークフリート」第三幕のブリュンヒルデのモノローグを口ずさみながら、着替えをした。

 次にフリードリッヒがトリープシェンを訪れたとき、リヒャルトは「トリスタン」のスコアを開いていた。 ちょうど10時のお茶の時間だったので、リヒャルトは居間にコーヒーとボンボンを運ばせると、フリードリッヒと向い合ってソファに座った。二人の会話は自然とフリードリッヒにとってはすでに神話的な過去となってしまった「トリスタン」初演の頃の出来事を巡って交わされた。リヒャルトは、「トリスタン初演のことを聞かせてください」というフリードリッヒの言葉を聞くと、まるでつぼを撫でられた猫のように、相好を崩した。
 「シュノールはトリスタン役を歌ったテノールだが、よく私に言っていたものだよ。
 『リヒャルト、全くここミュンヘンには、君を愛している者は誰もいないという有様だね。ただ一人の例外はルートヴィッヒ王だ。だけど、王とても、君を理解しているというわけではない。王は、君という人間を理解するには若すぎるし、純粋すぎる。王は、君という観念を愛しているだけなのだ。それでも王の、君と君の作品に対する情熱は、限界を知らない。これは、まさに奇跡としかいいようがないね。』
 シュノールは、だから、『トリスタン』が何とか上演できそうだということになったときには喜んで、
 『リヒャルト、良かったね。ミュンヘンでこのようにひどい扱いを受けた後では、君には『トリスタン』が是非とも必要だったのだ』と言ってくれたよ。」
 フリードリッヒは、実際「トリスタン」という作品をそれを創り出した本人よりも崇拝しているくらいであったから、リヒャルトからこの偉大な作品が誕生したいきさつを聞くのは好もしいことであった。フリードリッヒは、熱心に同意することによって、リヒャルトの昔話の発作に火を注いだ。もっとも世界にだってリヒャルトを止めることはできなかっただろうが。
 「4月5日にシュノール夫妻がミュンヘンに到着すると、私とビュローはさっそくリハーサルを始めた。私は、『トリスタン』にはどうしてもビュローが必要だと思っていたから、王に頼んで、彼を『特別目的のための王宮音楽監督』にしてもらった。まあ全ては技術的なことだ。世界の創造はすでになされてしまっているのだから、後は残りのがらくたを片付けるだけというわけさ。午前中は王宮劇場でオーケストラのリハーサルを行い、夕方には私の家でピアノ・リハーサルをやった。歌手たちがピアノの周りに集まって、私が伴奏した。時には、私自身が歌ってみせもしたものだ。みんな文句も言わずに、毎日熱心にやってくれたよ。私は以前、パリで『タンホイザー』を上演した時には、ポケット・マネーから楽団員たちに心付けをしなければならなかった。ミュンヘンの『トリスタン』の時は違った。何しろ、あの上演は通常の金儲けのための劇場上演ではなく、一つの野心的な芸術的試みだったのだ。劇場に気晴らしを求めてくる類の観客ではなく、『トリスタン』という芸術的な企てに心から関心をもってくれる人々のための上演だったのだ。」
 コジマが、ダニエラとブランディーネを連れて庭を散歩しているのが窓ガラス越しに見えたので、フリードリッヒの目はその姿をしばらく追った。リヒャルトは、フリードリッヒの視線の動きに気がついて一瞬冷水を浴びたように話を止めたが、フリードリッヒの熱心な視線はすぐにリヒャルトの上に戻ったので、安堵したような表情を見せて話を続けた。
 「ニーチェ君、ただひとつ、困ったことがあったのだよ。ハンスが、オーケストラのスペースを広げようとした時のことだ。劇場の支配人は、そのためには、30の客席を犠牲にしなければならないとやんわりと断ろうとしたのさ。そこでハンスは思わず頭に血が上って、『豚の番犬野郎が30匹多いか少ないかが、それほど重要なのか!?』と叫んでしまったのだ。もちろん、ハンスはそれを軽い冗談の積もりで言ったのだが、その話が翌日の新聞に載ってしまったのだから、騒ぎが大きくなった。これは仕方がないことであった。ハンスには悪気があったわけではなくって、連日のリハーサルで神経が高ぶっていたので、思わず本音が出てしまっただけなのだがね。」
 ここで、リヒャルトはフリードリッヒに片目をつぶってみせた。
 「とにかく、ミュンヘン中の新聞がハンスを追い出し、『トリスタン』の上演を阻止するためのキャンペーンを始めた。ある新聞などは、毎日、『ハンス・フォン・ビュローはまだここにいるぞ!』という大見出しで、それが日に日に大きくなっていくという具合さ。」
 フリードリッヒに思い出を語るリヒャルトの目は輝いた。リヒャルトにとって、「トリスタン」初演の日々は、長い苦難の後にあまりにもおずおずと訪れた結実と深化の時だったのだ。リヒャルトは次第に深い思念にとらわれるようだった。リヒャルトの言葉は途切れ途切れになり、その眼差しは夢見るように虚空を漂って、やがて、すぐ目の前にいるフリードリッヒの存在さえ忘れてしまったように見えた……。 

 リヒャルトとルートビッヒにとって、「トリスタン」初演は、眩暈がするほどの期待と興奮に満ちた体験であった。
 「おお『トリスタン』、『トリスタン』に、私が出会う日が近い! 少年の私の、そして青年となった私の夢が、ついに実現されるのです!」
 ルートヴィッヒは、そのような手紙をリヒャルトに連日のように送り続けた。リヒャルトも、そのような青年王の熱狂に答えるのにふさわしい快活な調子の手紙を送り返した。二人の間では、時には一日に4回も手紙がやり取りされることもあった。
 内閣の反対派の説得、「上演不能」というレッテルの克服、紆余曲折を経て、「トリスタン」初演の日は5月15日と定められた。しかし、この楽劇の世界への産み落としは、なおも、希にみる陣痛を伴うものであった。リヒャルトがかっていみじくも言ったように、「その完全な上演は、人々を狂気に陥れる」であろう危険な芸術作品の誕生を、あくまでも退屈な健全さの維持を夢見る世界が拒否したのであろうか? 何れにせよ、運命はとんでもない悪戯を企んでいたのだ。
 初演の日の朝、ミュンヘンのブリエネル通り21番のリヒャルトの住居のドアを叩く者があった。ドアの外には、リヒャルトが5年前に「S夫人」から借金をしたという証拠の書類を携えた債権者の代理人が立っていた。リヒャルトは、確かにそのような借金をした覚えがあったが、S夫人はそのころはリヒャルトの芸術の信奉者であったから、借金といってもそれは寄付のようなものであるはずだった。しかし、女性の恋愛感情混じりの信奉の念は、しばしば様々な微妙な理由で憎悪へと変わる。何れにせよ重要なことは、よりによって「トリスタン」の初演の日に、その取り立てが行われたということだった。不幸にして、リヒャルトはその負債に見合うだけの現金を持っていなかった。容赦なく、リヒャルトの住居の家具類には差し押さえの証紙が貼られた。世界苦に満ちた楽劇の初演の名誉ある日に、これ以上皮肉な恥辱があるだろうか? リヒャルトにとって栄光と戴冠の時になるはずのその日は、苦々しい現実とともに始まったのである。急いで、コジマが財務局へと走った。すでに国費を浪費しているという噂を流布されているリヒャルトにとって、これは是非とも避けたい行為であったが、他に選択肢はなかった。その上リヒャルトは、コジマに、不本意ながらも遜った手紙を持たせなければならなかった。
 「親愛なる官吏閣下、この手紙を持つ者が承知しておりますように、貴殿がこの苦境から本日中に救済してくださらない限り、私が生存し続けることは不可能でありましょう。この余りにも意図的な恥辱から、私をお救い下さいますよう。神も貴殿に報いんことを!」
 幸いリヒャルトの要求通り、国庫から借金は弁済された。最悪の事態は免れたのだ。しかし、リヒャルトが王室の金を自分のもののように使い込んでいるというミュンヘン市民の間にすでに確立した信念は、さらに強められることになったのである。
 しかし、「トリスタン」の初演の日にリヒャルトを襲った不運はこれで終りではなかった。債権者の代理人たちが立ち去ったと思うと、今度はトリスタン役のシュノールが涙ながらに駆け込んできた。イソルデを歌うはずだった妻マルヴィナが喉を痛めてしまったというのである。従ってその日の夕方、予定通り「トリスタン」を上演するのは不可能だというのだ。自身もこの日の上演にかけていたシュノールは、まさに気が狂わんばかりだった。しかし、リヒャルトは、すでに借金取り立てのごたごたですっかり打ちのめされていたので、この新たな緊急事態の発生にも動じることがなかった。その泰然自若とした様子は、まるで運命に対する不感症にかかったかのようであった。リヒャルトは、シュノールを慰めながら、その場でその日の「トリスタン」上演の延期を決断した。そしてシュノールの肩を抱き、なだめ、近い将来の再挑戦を約してやっとの思いでホテルの部屋に帰した後、ルートヴィッヒ宛に事実だけを簡潔に伝える手紙を書いた。
 「というわけで、『トリスタン』は延期されるのです……。私の人生は、余りにも長く、卑劣な者たちに翻弄されてきました。私は人の心の底に横たわる深淵を知っています。どのような希望も、その深淵に蓋をすることは不可能でしょう。」
 リヒャルトの内面における受け止め方がどんなものであったにせよ、「トリスタン」の初演中止は、このオペラが上演不可能な作品であると言う世間の懸念をさらに強めることになった。もっとも、「トリスタン」を上演する上での困難などは、それを創造するためにリヒャルトがヴェネツィアで通過しなければならなかった危険な道に比べれば、大したことではなかったのだが……。

 「マイスター! マイスター!」
 フリードリッヒがリヒャルトの膝に軽く手をのせた。それで、リヒャルトは現実に引き戻された。
 「ああ、君か。」
 リヒャルトは、フリードリッヒの顔をぼんやりと眺めた。その瞬間、リヒャルトにとって、この若き文献学者がどんなに才能に恵まれた前途有為な若者であったとしても、そんなことはどうでも良かったことは否めない。リヒャルトは出来れば、甘美な回想に耽っていたかった。フリードリッヒに促されて、リヒャルトは再びトリスタン初演の物語を始めたが、一瞬見せたフリードリッヒの存在を忌む表情が、この神経質な若者を傷つけたことには気づかなかった。

  様々な困難を乗り越え、「トリスタンとイゾルデ」が初演されたのは、1865年6月10日のことであった。総譜の完成から、6年の歳月が経っていた。
 「上演は、午後6時からの予定だった。ルートヴィッヒ王は、6時15分になって現れた。広々としたロイヤル・ボックスの中に、王は一人で立たれた。期せずして起きた拍手に、王は、軽く右手を上げて応えられた。ハンスは、王が席に着くとすぐにタクトを振ったよ。前奏曲の最初の音が出された。レント(ゆっくりと)! 前奏曲の間も、聴衆は劇場の中に流れ込んできた。もちろん王は、そのような周囲の雑音に気を取られている様子はなかった。王は、ほっそりとまるで古代エジプトの彫像のように、静かにボックスの中に立っておられた。」
 「第一幕が終ると、劇場のあちらこちらから、シッシッとやる音が聞こえてきた。もちろん、反対派の連中さ。ハンスが、指揮棒を振り回して、そのような邪気を追い払った。実際、『トリスタン』上演がうまく行ったのは、ハンスとシュノールのお蔭だと思っている。私は、あの時のシュノール程、完璧に『トリスタン』という作品を理解し、その中での自分の役柄を理解し、それを演じた歌手を知らない。」
 こうして、奇跡は起こった。リヒャルトがマチルデ・ヴェーゼンドンクとの成就され得ない愛の苦しみの中に構想し、ヴェネツィアの運河の黒い水面の中に夢見たロマン派の頂点であるとともにその危機の始まりであもある偉大な作品は、ついに世の中に披露されたのである。

 フリードリッヒに「トリスタン」初演のエピソードを語り終えたリヒャルトは、すっかり上気していた。何時の間にか日は高々と昇り、昼食の時間になっていた。リヒャルトはすっかり気が乗っていたので、秘密でも打ち明けるようにフリードリッヒの肩を抱き寄せた。 
 「ニーチェ君、昼食はここに運ばせよう。軽いサンドウッチか何かが良いだろう。」
 フリードリッヒは、すっかり圧倒されていた。フリードリッヒは、今日はリヒャルトが随分親しく、打ち解けたように何でも話してくれるので、すっかりのぼせ上がっていた。後にフリードリッヒは、友人に次のように報告している。
 「私はいつも、何百年に一度の天才の前にいるかのように感じている……。この偉大な天才の素晴らしい本質がわかるように君に何時間でも説明できればいいのだが……。彼は、死すべき定めの普通の人間たちの間に一人隔絶した、実り豊かで感動的なとてつもない生命に溢れている。ワグナーは、自己の力でしっかりと根を下ろし、滅びゆくものすべてを超え、そのはるかかなたを見渡している。」
 二人の間の年齢の差と、すでに成し遂げたものの量と質の差が、フリードリッヒをリヒャルトに対して実際以上に小さく見せていた。このことが、後に、フリードリッヒの血と肉の隅々までを蝕む「毒」となるのだが……。
 リヒャルトの話も一段落したので、フリードリッヒはおずおずと言葉を挟んだ。
 「先生は、どちらかというと寡作の方ですね。」
 「ああ、私の人生は、作曲ばかりでなくいろいろとゴタゴタに満ちていたかからね。」
 「先生は、やはり『指輪』で仕事を終えられるのではなく、その後の作品のことも考えられているのでしょうか? 先生という精神を盛る、より大きな器を求めて?」 
 「いや、ニーチェ君、それは違う。もはや、私は作曲する必要がないのだ。何故ならば、私は全てを成し遂げたのだから。だから、もし、私がこれ以上作曲することがあるとすれば、それは何かを成し遂げたいという飢餓感からではなく、むしろ純粋にそうすることの喜びからなのだ。」
 「ニーチェ君、これは是非覚えておくと良いが、創造において大切なのは、インスピレーションをいかに多く持つかということではなく、むしろそれを制限することだ。実際、インスピレーションというものは幾らでも沸いてくるものだ。そこから適切に選択することによって初めて秩序が生じてくるのだ。」
 リヒャルトは、ここで鈴をならして、コーヒーの追加を頼んだ。
 コーヒーが済むと、話題は、いつの間にかコジマのトリープシェンにおける地位についての話になっていた。もちろん、フリードリッヒは持前の神経質すぎるほどの観察眼から全てを悟っていたが、それを、直接問いただすような破廉恥さは持ち合わせていなかったのだ。ところが、リヒャルトが痛々しいと思われるほどフリードリッヒに気を使って、自らトリープシェンにおけるコジマのレゾン・ド・エートルを説明にかかったのだ。
 「フォン・ビュロー夫人には、いろいろと仕事の補助をして頂いている。むろん、ハンスも大いに賛成してくれている……。」
 ちょうどその時、コジマが顔を出した。
 「リヒャルト、話に夢中になるのはいいけれど、あまり熱しすぎるとニーチェさんがご迷惑ですよ。」
 リヒャルトは肩をくすめた。その次の瞬間、全く思いがけないことが起こった。リヒャルトは、
 「ニーチェ君へのお詫びだ。」
と一言叫ぶと、その場で逆立ちをしたのである。他に何の支えもなく、リヒャルトの体は見事に二つの腕の上に支えられた。コジマが、驚き呆れたように叫んだ。
 「まあ、リヒャルト! まあ、リヒャルト!」
コジマは、リヒャルトに駆け寄ると、リヒャルトの足を下ろそうとしたが、その手はためらったように引っ込められてしまった。可哀相に、フリードリッヒはすっかり当惑してしまって、リヒャルトが逆立ちしたままフリードリッヒに向かってウィンクをして見せても、顔をそむけるばかりであった。それは、あまりにも敬愛する巨匠ににつかわしくない軽率な行為のように思われたからだ。フリードリッヒが、軽業師のような真似をして見せることがリヒャルトの好きな冗談の一つだと知るのは、随分先のことであった。
 食事がすっかり終ると、少し雨が降っていたが、リヒャルトとフリードリッヒはそろって町の方へと散歩に出かけることにした。リヒャルトは、再び真面目な気分になっていた。
 「考えてみたまえ。どんな瞬間をとっても、人間の目にはとても記憶に残せないほどの膨大な光景が入って来ている。一生涯を通して、全体ではどれくらいの光景が、私たちの脳裏になんの印象も残さずに失われて行くことか。」
 リヒャルトとフリードリッヒは、しばらく沈黙したまま湖のほとりの美しい光景の中を並んで歩いた。

 フリードリッヒは、その夜ベッドにもぐり込みながら胸の中に言葉を刻み込んだ。
 「どこか、奇術師のようなところがあるにせよ、私、フリードリッヒ・ニーチェは、彼、リヒャルト・ワグナーを、愛している。心の底から、震えるほど愛している。」
 フリードリッヒは、しばらく寝つかれずに、銀河と銀河の間の暗闇の中をさ迷っていた。
 一方、トリープシェンでは、コジマがリヒャルトにフリードリッヒの印象を報告していた。
 「とにかくニーチェ教授は、ここ数年の最大の収穫だわ。言うことなすことに、紛れもない『非凡さ』が匂立っている。リヒャルト、あなたにとっても、重要なそして大切な人になるでしょう。」
 「そうだね。」
 「何よりも、貴方の力になってくださるかもしれない。第一、あの若い哲学者さんたら、すっかり貴方のことを崇拝しているようですしね。」
 リヒャルトは、コジマのこの意見には必ずしも賛成しなかった。
 「そうかなあ。確かに、今は私の作品を高く評価しているようだが。あの若者には、どこかルサンチマンというか、巨大な負のエネルギーを感じる。いつか私が、その負のエネルギーの中に巻き込まれる日が来るような気がしてならない。」

 6月5日、フリードリッヒの来訪が伝えられた。
 「断った方がよくないか?」
 リヒャルトは、コジマの体に気を使ってそういったが、コジマは首を振った。
 「ううん、ニーチェ教授には、来て頂いた方がいいわ。何事も、なるべく普段通りにしたいの。」
 リヒャルトがコジマの体を気遣ったのも無理はない。コジマは、リヒャルトの三人目の子供を腹の中に宿していて、いつ生まれてもおかしくない状態だったからだ。リヒャルトがフリードリッヒの来訪を断った方が良いのではとコジマに言ったもう一つの理由は、勿論、コジマが明らかに夫ハンス・フォン・ビュローのものではない子供を産むということに対する道徳的な気がねであった。特に、フリードリッヒの父親は牧師であったから、リヒャルトの懸念は社会的常識の線に沿ったものであったが、この点に関しては、リヒャルトの方が小市民的な道徳感にとらわれていたと言えた。リヒャルトよりも出身階層が上のコジマは、かえってリヒャルトよりも自由な境地に立つことができたのである。
 夕食が済みコーヒーの時間になっても、コジマは休もうとしなかった。リヒャルトは、心配でたまらないというように、コジマの前を行ったり来たりした。11時頃になって、リヒャルトは堪り兼ねたように、コジマの体に自分の寝間着をかけた。
 「さあ、二階の寝室に行って休もう。」
 リヒャルトに労られながら階段を一歩一歩昇っていくコジマの姿を、フリードリッヒがじっと見送った。
 コジマは、次第に陣痛が強まって来るのを感じた。
午前1時、コジマはリヒャルトを起こした。
 「リヒャルト、子供が生まれそうなの。」
 リヒャルトは手を握って、コジマと一緒に部屋の隅の辺りにある暗闇を見つめた。午前2時頃、さらに陣痛が強まって明らかな出産の兆候が見られたので、コジマはヴレネリを呼んだ。
 「助産婦さんを呼んできて。」
 「大丈夫か、コジ?」
 リヒャルトが、心配そうにベッドの横からコジマをのぞき込んだ。コジマは、笑みを浮かべようとするのだが、その顔はすぐに、苦痛に歪んでしまうのであった。
 午前3時、助産婦が来た。コジマは少し楽になってきたようであった。リヒャルトは、産室の前を往復しながら中の様子を窺った。
 「おお、天にまします神よ!」
急に、助産婦が素っ頓狂な叫び声を上げた。リヒャルトは、その叫び声を聞いて青くなった。てっきり、コジマに何か恐ろしいことが起こったに違いないと思ったからである。リヒャルトは急いで産室にかけつけて、中から飛び出してきたブレネリと鉢合せした。ブレネリは、リヒャルトに笑顔を向けた。
 「男の子ですよ!」
 リヒャルトの顔がくしゃくしゃになった。そして、時計を見て
 「我々の息子が生まれたのは、午前4時だ。」
と言った。
 リヒャルトは、居間にいるフリードリッヒにコジマの出産を告げた。
 「おめでとうございます。」
 フリードリッヒはそのように、気のなさそうな祝いの言葉を述べると、リヒャルトの気配を背中に感じながら、何となく居心地が悪そうに暖炉の前でぐるぐると円を描いて歩いた。
 最初の男子、ジークフリートの出産に対するリヒャルトの喜びようは大変なものであった。56才にして初めて得た男の子供であった。

 その夜、コジマはベッドに横たわり、リヒャルトはコジマの手を握って、二人はゆったりした気分で前の年に起こった様々な出来事を振り返っていた。ジークフリートが生まれ、不思議な達成感に満たされた今、二人はどのような経緯でこのような運命の袋小路に追い込まれてしまったのか、振り返ってみる心理的な必要性があったのだ。
 前の年の7月に、もう二度とミュンヘンには戻らないというリヒャルトの決心を聞かされたコジマは、今こそ、ハンスとの見せかけだけのつながりに終止符を打って、リヒャルトの人生と、その作品に「帰依」する時がきたと判断したのだった。それに、その後、ジークフリートを身篭ったので、リヒャルトがミュンヘンを離れた後、ハンスとその母親のいるミュンヘンの住居に居続けることは実質的に不可能となったのだ。
 問題はルートヴィッヒであった。このように長い期間、二人の関係についてルートヴィッヒをだまし続けてきた今となっては、秘密を打ち明けることは、心理的に殆ど不可能な大災厄であった。リヒャルトは、次第に殆どおとぎ噺と言うべき世界に逃避することでしか、ルートヴィッヒとの接触を持ち得なくなってきた。誰が、あのナイーヴな青年王の繊細な皮膚に、大人の世界のごたごたをなすりつけることができるだろうか! それが不可能なことは、お金の問題を別にしても明らかなことであった。
 「フォン・ビュロー夫人は、ミュンヘンを永遠に去ることになるでしょう……この女性については、今後も、王はその消息を私から聞くことが出来ると思います。フォン・ビュロー夫人は余りにも深遠で、類希な存在なので、彼女は、本来この世界に属するべき人ではないのです。従って、彼女は、世界のために働いている全ての高貴な人間がやがてはそうせざるを得なくなるように、この世界から消えることになるのです。」
 リヒャルトは、このような白々しい手紙をルートヴィッヒに書いた。リヒャルトのこの行為は、ルートヴィッヒの世間知を不当に低くみなすものであったが、リヒャルトたちのルートヴィッヒに語るおとぎ噺は、このように進行するしかなくなっていたのだ。それにしても、手紙の中のように、本当にコジマがこの世界から消えることができたらどんなにか楽であったことだろう!
 取り敢えず、リヒャルトとコジマはイタリアに逃避することにした。イタリアは、コジマの生まれ故郷でもあった。コジマは、夫ハンスには、「ヴェルサイユにいる義理の妹に会いに行く。」と言わなければならなかった。そのような嘘は、もはや実質的には必要だとは言えなかった。しかしたとえ表面的なとりつくろいにせよ、当座のハンスに対する思いやりであるように思われたのだ。リヒャルトとコジマは、9月14日に、トリープシェンを出発した。二人は、アルプスのサン・ゴタールド峠を超え、ジェノヴァに至った。リヒャルトとコジマは非現実の中に逃げ来んだのだ。
 トリープシェンへの帰路、コジマとリヒャルトはチツィーノ峡谷で、ひどい嵐に見舞われた。その結果として起こった洪水で、二人は道を塞がれた。何時までも絶えることなく続く雷鳴の中を、二人は三十キロメートルに渡って歩き続けなければならなかった。
 リヒャルトには、ミンナと、29年前の夏バルト海沿岸の小都市リガを逃れ、国境警備兵の隙をついて密入国した東プロイセンから小さな帆船でロンドンへ向けて密航した時のことが思い起こされた。突然襲った嵐に、雷鳴が轟き、船は木の葉のように波にもてあそばれた。あの時と同じ様な雷鳴の中をコジマと手と手を携えて行くリヒャルトの脳裏には、若く貧しくしかし希望に燃えていたカップルの姿が浮かび上がってくるのだった。
 「生きたまま海の底に引きずり込まれるくらいなら、いっそ、一思いに雷に打たれて死にたいわ。」
そう言ったミンナの表情が、リヒャルトには過去から来た亡霊のようにはっきりと見えた。それに、リヒャルトの手を握り締めてくるコジマの手の感触が、あの嵐の最中死ぬときも離れたくないと手と手を布で結び合ったミンナの手の感触にも思われてくるのであった。一瞬、稲妻がコジマの顔を照らし出した時には、リヒャルトは内心飛び上がるほど驚いた。コジマの顔が若い頃のミンナの青白い顔と重なりあって見えたからである。
 いずれにせよ、この時の体験により、リヒャルトとコジマの絆は、一層強められた。過去からの亡霊の訪問が、現在の状況の真実性を、いっそう胸に迫るものにしたのだ。
 「死に向い合うとき、人はもはや幻想を抱くことはできないのです。死に正面から向い合うことによって、人は真実自体を知るのです。ある人間の中の永遠なるものを救おうとすれば、全ての偽りの見せかけには、背を向けなければならなくなるのです。」
 リヒャルトは、後に、ルートヴィッヒへの手紙の中でこのように述べて、この体験から受けた精神的影響とともに、今や切り離せないものとなったコジマとのつながりをほのめかしている。

 6月15日、コジマは、夫、フォン・ビュローに手紙を書いた。
 「ハンス、このような耐え難い状況をこれ以上続けるわけには行きません…… 」
 コジマの手紙を受け取ったハンスにとっても、破局がもはや避けられないものであることは明らかであった。しかし、ハンスにとっては、リヒャルトに直接会うことは耐え難いことであった。考えてみれば、心の底から尊敬する巨匠が自分を裏切ったのであるから。そこで、全ての交渉は、リヒャルトの介在なしに行われることになった。コジマの父、フランツ・リストとしても、事態がここまで進行した以上、もはや信仰うんぬんではなく実際的な判断の必要な領域に達していた。
 コジマとハンスとの離婚が正式に成立し、ルツェルンの教会でリヒャルトとコジマの結婚式が行われたのは、翌1870年の8月25日のことであった。

 1869年のクリスマスは、静かに暮れようとしていた。
 ジークフリートは、暖かそうな純白の毛布に包まれて、すやすやと眠っていた。
 コジマは、フリードリッヒと共にリヒャルトの「パルジファル」の台本を検討していた。
 「私がこの台本で特に心を惹かれるのは。」
 フリードリッヒは、コジマがいれさせたショコラが冷めてしまうほど我を忘れて興奮した面持で言った。
 「この劇の構成が、硬直化し因習化した宗教組織と言うものの本質を捉えている点です。そのような宗教組織が「救済」されるためには、パルジファルのような、何も知らない、荒々しい若者の「血」が必要なのです。そのような意味で言えば、クンドリでさえ破壊されるべき「古い」世代に属している。パルジファルの「革命」が成功した暁には、クンドリはもはや必要とされないのです。」
 例によって、フリードリッヒの意見は、時に風変りで、極端であった。普段はフリードリッヒが熱しすぎるとやんわりとたしなめるコジマも、今日はゆったりと寛いでフリードリッヒの言葉に耳を傾けているだけだった。
 フリードリッヒは、さらに続けた。
 「先生よりも若い世代が、次なる革命の主体になるでしょう、その時には、先生はもうお休みになって、安心して後進に道を委ねることができるでしょう。」

 けがれなく、罪を赦免され、あがなわれよ!
 何故ならば、私があなたの職務を受け継ぐからです。
 あなたの苦しみは、祝福されてあれ!
 この臆病な愚か者に
 同情の至高な力と
 純粋な英知を
 与えて下さったのですから!

すっかり夢中になって「パルジファル」の終曲の部分を引用するフリードリッヒに、リヒャルトは冷やかしの言葉をかけた。
 「なになに、私は、まだまだグルネマンツにはなるつもりはないよ。まだ、自らパルジファルの役割を果たすつもりだ。それに私にとってのパルジファルは、息子のジークフリートかもしれない。」
 三人が、そうやって暖炉の前で談笑していると、子供たちが部屋に入ってきた。子供たちは明らかに興奮していた。
 「見て、見て、このお人形。パパがくれたんだよ。」
 子供たちの熱狂の与える妙な臭いの影響の下に、フリードリッヒは、さらに熱っぽく続けた。
 「そもそも、どのような宗教的体系であれ、それが絶対的な意味を持つということがありうるでしょうか? どんなものでも、宗教とは眠りをもたらし、『静止』へと向かう、一つの堕落した運動の形態に他なりません。私には、芸術こそ人間の精神の最高の形態であるように思われます。何故なら、美的現象としてだけ生存と世界は永遠に是認されているからです。」
 フリードリッヒは、最後のセンテンスに特に力をこめた。まるで自分の魂をこめ、よく練り上げた小麦粉の塊を投げつけたかのようであった、フリードリッヒはリヒャルトの反応を窺った。しかし、リヒャルトは、フリードリッヒの顔をちらりと見ただけで、すぐにダニエラとブランディーネに目を移してしまった。リヒャルトは子犬を転がすかのようにダニエラにじゃれついた。
 「これらの全てのことは、私の音楽の哲学の体系から導き出されることなのです。」
 仕方がなく、フリードリッヒはコジマの方を向いて話しかけた。
 「私は、この音楽の哲学に関する見解を、本にして出版するでしょう。私の古代ギリシャの文献学の研究成果を踏まえた、素晴らしい本になるでしょう。その際には貴女には真っ先にお届けする予定です。もちろん、先生にも。」
 「ありがとう。楽しみにしていますわ、ニーチェ教授。」
 コジマの答礼は心のこもったものとは言えなかったが、それでも、フリードリッヒには十分だった。フリードリッヒは、コジマに刺すような眼差しを向けると、くるりと向きを変えて部屋の中を歩き回り始めた。フリードリッヒは、爪を噛み髪の毛を撫付け顎をさすった。要するに、フリードリッヒは、触覚による刺激を求めていた。フリードリッヒの熱狂は明らかに度を越していた。まるで長い間肺病を病んで寝ていた子供が、急にパーティーの会場にやられて興奮の渦に巻き込まれたかのようであった。

 クリスマスの夜は更けていた。子供たちは寝静まり、居間にはコジマとリヒャルト、それにフリードリッヒの三人が残っていた。フリードリッヒは静かに暖炉の前に座っていた。リヒャルトはお気に入りのアームチェアーに深々と沈み込むように座り、暖炉の前のフリードリッヒに背を向け、知人からもらったばかりの見事な灰色のペルシャ猫を膝の上に乗せてあやしていた。リヒャルトには、皮膚からの慰謝がその時是非とも必要だったのだ。そんな二人を前に、コジマは、リヒャルトの口述を書き留めた「我が生涯」の中から、ルートヴィッヒ王との出会いの部分を読んでいた。
 「次の日、私は、バイエルン王の枢密秘書官プフィスターマイスター氏を私の部屋に迎えた。シュトゥトゥガルトの私の居場所がこんなにも簡単に第三者に露呈してしまったことに、私は動揺していた。前の晩、私は眠れなかった。これまでの人生の経験から、私は最悪の事態を覚悟していたのである。しかし、プフィスターマイスター氏がもたらしたのは、幸運と休息だった。プフィスターマイスター氏は、まず、ついに私に会えたことに対する感謝の意を述べた。そして、ウィーンやマリアフェルトなど、私の立ち回り先を苦労して調べた経緯を説明した。まず私が受け取ったのは、若く美しいバイエルン王ルートヴィッヒ二世からの直筆の書簡と、その肖像画、そして指輪であった。ルートヴィッヒ王は、王位に就くとすぐに少年時代から敬愛していた作曲家、リヒャルト・ワグナーを捜し出し王の下に連れてくるように命令したのであった。その命により、プフィスターマイスター氏は直ちに私をミュンヘンに同行するという使命を帯びていた。」
 コジマは「我が生涯」を朗読しながらも、先ほどからフリードリッヒの様子が気にかかっていた。もともと「我が生涯」の朗読を望んだのは、フリードリッヒであった。その熱心さは尋常ではないほどで、「我が生涯」の草稿を借り受けて肌身離さず持ち歩きたい、もっともそんなことをしたら、私の体臭が原稿に移ってしまうけどよろしいか、私は毎日入浴を欠かさない。そして全ての文章を一字一句暗記するまで、じっくり読み込みたいのだと申し出る程であった。人のいいコジマは、フリードリッヒの熱心さを青年らしい巨匠への憧れと尊敬の念の発露であると理解し微笑したのである。ところが、朗読が始まってからのフリードリッヒの様子は、どう見ても熱心に聞いているとは思えないものであった。どこか苛立っているようで、爪を噛んだり、髪の毛を掻きむしったり、突然立ち上がってまた座ったりした。そうかと思うと、暖炉の方に顔を向けたまま身じろぎもしないので眠ってしまったかと思うと、目を見開き、らんらんと輝かせているといった具合であった。そんなフリードリッヒの立ち振舞いに、コジマは次第に不安を感じてきた。それも、目に見える差し迫った具体的な危険に対する不安ではなく、フリードリッヒという存在がもたらす、漠然としたその場の空気の不安定さ、不気味な予感といったものに対する不安なのであった。
 そうした中、コジマの朗読も最後に近付いて来た。コジマは「我が生涯」の最後の文章を読みながら、フリードリッヒの様子をそっと窺った。
 「…… 私は、同じ日に、ウィーンへ戻ることは債権者がいて危険だから、絶対に来ないようにとの緊急の警告を受け取った。しかし、私の人生は、もはやこのような警告を必要としていなかった。私をさらに高い目標へと誘う、運命が定めた道は、それなりの困難や危険を伴うであろう。しかし、いとも気高き友の保護の下、今まで私を苦しめて来たような生計のための卑俗な悩みは、私の人生を二度と訪れることはなかったのである。」
 コジマは草稿を置き、ほっとため息をついた。コジマには、その時、フリードリッヒの目が一瞬妖しく燃え上がったように見えた。それは、夜の密林の中で光る野獣の眼差だった。コジマは、部屋の中は暖炉の火で暑いくらいというのにぶるっと身震いがした。それと同時に、心の中に氷のように冷たい何かが侵入してきたかのようであった。コジマは、助けを求めるようにリヒャルトの方を見た。しかし、アームチェアに深々と身を沈め、ペルシャ猫をあやしているリヒャルトはそんなことには気に留めてもいないようであった。リヒャルトの目は潤み、遠い日の思い出を見やっていた。
 「リヒャルト、気をつけて!」
 思わず、コジマは声を発していた。リヒャルトが、眠そうな目でコジマを振り返った。それが合図のように、ペルシャ猫は大きく伸びをすると、リヒャルトの膝から床の上に勢い良く飛び降りた。

エピローグ
 
 このクリスマスの夜から20年後の1889年1月7日、フリードリッヒが発狂したという警告を受け取った親友Oは、トリノにフリードリッヒを訪ねた。フリードリッヒは、ソファの隅に膝を抱えてうずくまり、文書を読んでいた。それは、自らと故・リヒャルト・ワグナーの対決を描いた「ニーチェ・コントラ・ワグナー」の最終校閲であった。フリードリッヒはOを一目見ると、猛然と突進し、Oを抱き締めた。Oは、フリードリッヒの腕がぶるぶると震えていることに気が付いた。フリードリッヒの目からは、大粒の涙が他人の存在をはばかることなく流れ出していた。
 「どうしたんだ?」
 Oが尋ねても、フリードリッヒは首を振って黙っているだけであった。そして、急にOの腕を振りほどくと、猛然と部屋の中を歩き周り始めた。Oは、フリードリッヒの動きを目で追いながら、部屋の様子を窺った。簡素なその部屋の中には、ソファがひとつと、アップライト・ピアノが一つ置かれた以外には、小さな机があるだけで、寒々とした空気が流れていた。部屋の隅の丸椅子に、付添いの医者が座り、フリードリッヒの様子を注意深く見つめていた。そうやって、5分くらいが経過しただろうか。
 「ああああああ・・・ 」
 突然、フリードリッヒは一言うめくと、ソファの上に沈み込んだ。付添いの医者が椅子をがたんと言わせて立ち上がると、Oにとっては暴力的とさえ思える性急さで、フリードリッヒの口の中に臭素水を流し込んだ。フリードリッヒは、その処置で、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。フリードリッヒの口元には、自らの世界における位置を把握しているものの安堵と倦怠の兆が現れた。
やがて、フリードリッヒは、訳の判らない言葉の断片を喉から絞り出すように連発し始めた。
 「神…… 神の墓標……あのように死のう…… おれは神を捜している……このいかがわしい者……永遠にして道化的なもの……十年は過ぎた……鳥のように自由な……造形するのだ、芸術家よ、語るな…… 上もなく下もない…… ああ、アリアドネ!」
 医者が、Oに向かって病人を刺激しないようにと身振りで合図した。Oは、フリードリッヒの変わり果てた姿にただ呆然と立ち尽くすだけであった。Oが後にこの時のことを振り返って、もっともぞっとしたことは、フリードリッヒが、どうやらピアノに向かって全てを喋っているようにしか見えないことであった。まるで、Oや付添いの医者など、その部屋に存在しないかのようであった。フリードリッヒの周りの空間は歪んでいて、全てがピアノに向かって絞り込まれて、その細い切れ目を通してだけフリードリッヒは世界とつながっているかのようであった。
 翌日、Oはフリードッヒに付き添って鉄道の駅に向かった。フリードリッヒは最初は激しく抵抗したが、医者が「貴方が王様になるための戴冠式の準備が整っています」と言って、初めて服を着替える気になった。それでも手が震えて、ボタンを留めるのが一騒ぎだった。おまけに、駅に向かう途中、誰彼かまわず握手したり抱き締めようとするので、何回も「それは偉大な人間にふさわしくない行為ですぞ」と耳打ちしなければならなかった。
 バーゼルに着いたフリードリッヒは、精神病院に強制入院させられた。診断は「誇大妄想、精神薄弱、記憶喪失、思考停止」であった。カルテには「訳のわからないことを喋り続け時折大声で歌ったり叫んだりする。常に興奮し、絶えず食物を欲しがる。自分は有名人であると主張し、絶え間なく女性を要求する。」と書き込まれた。
 これが、偉大な哲学者フリードリッヒ・ニーチェの晩年の精神状態に関する公式記録である。この日から1900年8月25日に最後の息を吐くまでの11年間を、フリードリッヒは精神病の治療施設の中で過ごしたのである。 

 著者のノート:この作品、『トリープシェンにて』は、2008年頃に書いた習作「ワグナー三部作」の三番目の作品で、ワーグナーの自伝、Richard Wagner: My life(英語版)の記述に従うと同時に、フィクションを加えています。
 ニーチェとワグナー、コジマの交流の細部はフィクションです。
  「ワグナー三部作」は、あと、パリ滞在時代の若くて貧しいワグナーを描いた『パリのワグナー』、トリスタン作曲の頃を描いた『ヴェネツィアのワグナー』があります。

茂木健一郎