高校の国語が、「論理国語」と「文学国語」にわかれる、というニュースに接して、しばらく考えて、やはり、その衝撃を吸収できない自分がいた。


 どういう意味があるのだろう?


 言語の運用能力として、論理的な思考力、批判的思考、というのがあるのはわかる。

 しかし、それは、いわゆる文学的な読解力と、ひとつながりのものだ。


 おそらく、「論理国語」と「文学国語」という分類が成立すると思うのは、日本で「批評」の文化が弱いことと関係している。


 文学作品を批評するときには、当然緻密な論理の構成力や、立論力が必要とされるわけだが、今までの日本では、弱い「感想」のようなものしか、文学作品には求められてこなかったということだろう。


 そもそも、ある文章を読んで、その内容について批判的思考で検討を加えるというのは、「国語」だけに限ったことではなくて、社会や理科でも当然行われなければならない。


 「論理国語」という独立した教科にできる、という発想はどこから来ているのだろう。


 そもそも、「国語」ってなんだ?

 「日本語」だろう。

 感覚が古くてダサい。 
 「日本語」としてとらえないと、外国の方を含めた、日本語の国際的な広がりを把握できない(たとえば漫画とかアニメ)。


 それにしても、日本語に関する教科を、「論理国語」と「文学国語」に二分して、そのうちどちらかを選択する、ということを考える人たちの頭の悪さとセンスの貧しさには、驚愕する。


 まさか、国で「指導要領」を考えている人たちが、そこまで質の低い人たちだとは思わなかった。


 やはり、日本の教育は中央集権をやめて、各所でベストプラクティスを工夫して実践する分散型にした方がいいのではないか。


 かわいそうなのは子どもたちである。


 とりあえず、愚かな二分法はガン無視して、論理的思考、批判的思考から文学作品の未読まで、全スペクトラムを実践する教育をやればいいと思う。


 国の愚かなポリシーに従うことよりも、子どもたちの未来を守ることの方がよほど大切だ。


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