連続ツイート2144回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、「芸としてのおっさん」について。



「新潮45」に限らないことだけれども、日本語メディアの中には、「芸としてのおっさん」のようなものがあって、それが一つの読み味になっていたり、文学性にすらなっているのだけれども、長い目で見ると、やはり衰退していくというかマイナーな存在になっていくのかなと思う。


ずいぶん前(20年くらい?)のことだけど、活字メディアの中で、「人権人権って言うな」「人権真理教」みたいなことを書いている人がいて、おっさん、自分の人権が侵されてもいいのか、だいじょうぶか、とツッコミたくなったが、そういう「芸としてのおっさん」は脈々とある。


LGBTQのことだって、夫婦別姓のことだって、みんなが自由に、それぞれの幸せをそれぞれのかたちで追求できるようにすればいいのに、「芸としてのおっさん」は、いろいろと難癖をつける。それが、中途半端な知性があるもんだから、一見何か意味のあることを書いているように見えるからやっかいだ。


人類はみんなアフリカから来たんだし、言語とか国籍の差とかは相対的なものに過ぎないのだけれども、「芸としてのおっさん」は、そんな知性の焼きなまし(つまり知性温度をいったん上げること)ができないで、あくまでもローカルミニマムであれこれ言う。それが知性だと思いこんでいる。


「芸としてのおっさん」は、おそらくはニーチェの言う「ルサンチマン」と関係していて、それは誰にだって人生のあれこれがあるし、その中でこじらせてしまったこともあるだろうけれども、それと、立論するときのロジックとか方向は別なのに、「芸としてのおっさん」はそれを混同してしまう。


困ったことに、日本語のメディアの中では、一筋縄では行かない「芸としてのおっさん」が、ある種のスタイルとして受け継がれてきたところがあって、それが守っている日本の何かもあるのかもしれないけれども、グローバル化の中で、次第に旗色が悪くなっていて、はっきり言うとダサくなってきている。


今回の新潮45事件は、つまり、このような「芸としてのおっさん」の無理が弾けてしまった。もともと、英語などに直して流通できないコンテンツだし、一種のガラパゴスの味として大目に見てこられたのだけれど、何事もつながる時代、片隅のごにょごにょにもスポットライトが当たってお気の毒です。


結論から言えば、「芸としてのおっさん」は衰退せざるを得ない。出版社の中でも、たとえば漫画部門がそうだけど、国際化に成功しているところは最初から「芸としてのおっさん」は相手にしていないし、未来を夢見る青少年もそんなもの興味ないから、「芸としてのおっさん」はそろそろ引退なのでしょう。


以上、連続ツイート2144回「芸としてのおっさん」について、8つのツイートをお届けしました。

補足。「芸としてのおっさん」の中にも、紅顔の青年や、恥じらう少女はいると思うから、おっさんたちが心のきぐるみを脱ぐことを期待いたします。人は変われるから。


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