連続ツイート第2111回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、「フィクションと真実」について。


子どもの頃から寄席にはほんとうによく通っている。それで、三代目、三遊亭圓歌師匠の『中沢家の人々』も、何回聴いたかわからないくらいうかがったことがある。ほんとうに面白くて、何度聴いても爆笑した。


『中沢家の人々』は、圓歌師匠が、麹町のお屋敷にお住まいになっていて、ご自分のご両親と、奥様のご両親と同居していて、「佃煮にするくらいに」年寄りがいらして、朝お経を唱えているとみんな集まってくる、みたいな私小説的落語で、何度聴いてもほんとうに面白かった。


話の筋をそらんじられるくらいに何度も聴いた『中沢家の人々』。三遊亭圓歌師匠の十八番だった。それで、多少の脚色はあるにせよ、実体験に基づく随想なのだと長年思い込んでいたが、どうも、ほんとうなのかどうか、わからないのだという。


圓歌師匠のおひとがらもあって、お経を唱えて「どうだ、ほんものは違うだろう」と言われるとそうだなあと思うのだけれども、あのお経も、実際には適当だったというし、お坊さんになられたというのもどうもほんとうかどうかわからないのだという。


圓歌になる前の、「歌奴」時代の十八番だった、鉄道につとめていて山のあなあなというやつも、ほんとうかどうかわからないと言われると、かえって凄いなあと思ってしまって、もし純然たるフィクションをあそこまでほんとうのように話せるというのは、たいへんな才能だ。


もっともすぐれたフィクションは、自然なかたちをしているので、真実に近づく。聞く側の心にすとんと落ちていく。三遊亭圓歌師匠の『中沢家の人々』は、その意味で、最高のフィクションだったのだろう。まだお聞きになっていない方は、ぜひ一度お聞きになることをおすすめいたします。


以上、連続ツイート第2111回「すぐれたフィクションは真実に近づく」をテーマに、6つのツイートをお届けしました。

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