ヤノベケンジさんの「サン・チャイルド」について
茂木健一郎
JR福島駅の近くにある教育文化複合施設「こむこむ」前に設置されたヤノベケンジさんの作品「サン・チャイルド」が論議を読んでいる。
(画像は、ヤノベケンジさんのサイト
http://www.yanobe.com/
より引用)
「サン・チャイルド」
ヤノベケンジさんご自身も、この問題について声明を出されている。
この問題を、公共空間、現代アート、そしてパブリックアートという視点から考えてみたい。
公共空間をどう形成するかは、何よりも地域のコミュニティの方々のお考えによるべきである。
作品が私有地に設置される場合でも、景観形成に関する基準がある。条例で明示的に規制される場合も、そうでない場合も、地域の方々がどう感じ、考えるかということは、ある作品がその地域の公共性の中でどう評価されるかという議論に当然影響を与えるだろう。
今回、「サン・チャイルド」が設置されたのは公共施設であり、その意味で私有地に設置されるよりも格段に公共性が強いと言える。「サン・チャイルド」の作品としての評価とは別に、それが公共空間に置かれることの是非については、福島市の方々や行政の方々が議論して同意形成を図っていくべきことだろう。
一方、現代アートという文脈から考えれば、ヤノベケンジさんの今回の作品は、予想される表現の「スペクトラム」の範囲であると言える。
批評的であること、論争を巻き起こすことは、現代アートの宿命である。しばしば、すぐれた作品ほど、多くの論争を呼ぶ。後に古典と言われるような作品が、登場した頃には強い拒絶を呼ぶこともある。
作品を見て、美しくないとか、嫌いだとか、そのような感想を抱くのは、個々の鑑賞者次第である。
現代の文脈では、およそある作品が美しいか美しくないか、多くの人の好感を集めるかどうかといった基準は、一つではないという理解が浸透している。芸術は、美しくなければいけないということもない。もちろん、美しい作品は多くの人を魅了するだろうが、美しいことが、アートの必要条件なのではない。しかも、美の基準は人によって違っている。
現代アートの文脈に限っていえば、今回のヤノベケンジさんの表現はおおいにあり得るものであり、より批評的な作家、作例と比較すれば、むしろ「穏当」であるとさえ言えるだろう。
最後に、パブリックアートとしての視点である。
ここには、公共空間と現代アートという二つの文脈が交錯する。
しばらく前に、仕事で福島を訪れる機会があり、福島駅の周囲をめぐった。
人々の生活が息づいていた。
心の温かさがあった。
一方で、忘れてはいけないことがあることも感じられた。
今回の「サン・チャイルド」は、忘れてはいけないことを記銘しつつ、福島の未来を明るく思う作品として、私個人は「あり」だと思う。
そう思われたから、行政の方々も、「サン・チャイルド」を設置するという判断をされたのだろう。
一方、福島という土地の温かさ、魅力は、事故の前からずっと綿々と続いていたことも事実である。
福島がもともと持つ魅力が事故のイメージでともすれば見えにくくなっているとするならば、福島の古くから伝わる、いわば深いところにある固有の愛、魅力をほりおこして表現するようなパブリックアートの作品も、またあって良いのではないかと思う。
一見事故と無関係であるようで、実は深いところで批評性を持つような、福島のもともと持っている魅力を掘り起こすような、そんな作品があっても良いのかなと私は考えた。
そんなパブリックアートも、ぜひ見てみたいと思う。
いずれにせよ、以上のようなことを考えるきっかけになったという意味でも、ヤノベケンジさんの「サン・チャイルド」は、一定の役割を果たしていると言えるのだろう。
最後に、今回の議論が、福島への関心を高め、深めること、復興への応援につながることを願ってやみません。
何よりもいちばん大切なのは、福島の方々が元気に未来を志向できること、そしてそのことをみんなが応援することなのですから。
(個人的なこと。福島には親戚が住んでいることもあり、子どもの頃からしばしば訪れていました。相馬野馬追も見たことがあります。伯父がいわき市に住んでいます。ヤノベケンジさんの作品には以前から関心を持ってずっとフォローしています。拙著『東京藝大物語』にも、ヤノベケンジさんへの言及があります。)