個別性に寄り添って生きるということは、時に傷つけられることが避けられないということを意味する。傷つけられてしまった事実から逃れられない状況の中で、生き続けなければならないことを意味する。
 私たちは、一人一人、取り替えの利かない人生を生きている。自らの身に起こったことからは、肉体が取り替えが利かない以上、逃れようがない。我が身に起こったことは、それを引き受けざるを得ないということが、人間の置かれた根本的な存在条件である。
 実際に傷つくことと同様に、傷つけられる可能性自体が、生きる上での切なさに通じることがある。
 「傷つけられ得ること」(vulnerability)は、文学の重要なテーマである。特に、永遠の若さと美しさに価値を置いているかのように見える、アメリカの文学においてそうである。
 ジョン・アーヴィングの作品において、「傷つけられ得ること」は重要なモティーフになっている。『ホテル・ニューハンプシャー』の中には、繰り返し「開いている窓を通り過ぎること」という警句が登場する。開いている窓から、飛び降りてしまわないように気を付けろというのである。『ガープの世界』では、ガープの母親が、「引き潮に注意」と繰り返す。海辺に立っていて油断していると、引き潮が思いもかけず強くて足をすくわれることがあるというのである。人生には、思わぬところに思わぬ危険が待っている。実際、ガープは、偏執狂的なストーカーに撃たれてしまう。
 若くて美しい、完全とも思われる状態にいる者ほど、いつかはその完全な状態が失われてしまうことを恐れる。『華麗なるギャツビー』以来のアメリカの文学作品の中には、綿々とそのようなモティーフが受け継がれている。ディズニーランドのぴかぴかのプラスティックの世界は、永遠の若さと美しさのメタファーである。そのような見かけ上の永遠は、傷ついたプラスティックのパーツを交換するシステムによって成り立っている。
 しかし、自分の人生は取り替えるわけに行かない。皺だらけになった肉体を、つるつるの若い肉体と交換するわけにはいかない。傷ついてしまったら、傷ついてしまったことを引き受けて生きていくしかない。
 人間は至るところで事故に遭い、やがて老い、死んでいく。そのような私たちの生の絶対条件を考えた時、アメリカ文化の中に根強くある永遠の若さへの執着は、かえって痛ましくさえ感じられる。

茂木健一郎『脳と仮想』(新潮社)より。