茂木健一郎『脳と仮想』(新潮社)より




 小林秀雄は、どのようにして、強大な科学的世界観に対抗しようとしていたのだろうか。
 小林は、人間の経験全体を引き受け、その切実さに寄り添うことで、その生涯の仕事をした人である。科学に対抗するといっても、それは小林にとっては為にすることではなかった。自らの表現者としての生き方の延長上に、ごく自然に科学的方法論に対する異議が立ち現れた。

 この科学的経験というものと僕らの経験っていうものは、全然違うものなんですよ。今日科学が言っている経験というものはだね、私たちの経験とは全然違う経験です。それは合理的経験です。だいたい私たちの経験の範囲というのは非常に大きいだろう。合理的経験ばかりすりゅあしないですよ。ほとんどの私たちの生活上の経験は、合理的じゃないですね。その中に感情もイマジネーションもいろんなものが入っていますね。道徳的経験。いろんなものが入っている。
 人間の広大なる経験の領域っていうものは、いろんな可能な方法にのばすことができるでしょ。それをのばさないように、計量的な経験、勘定することのできる、計算することのできる経験だけに絞った。他の経験は全部あいまいである、もしも学問をするなら、勘定できる経験だけに絞れと、そういう非常に狭い道をつけたんです。(講演の原発言のまま)

 人間の経験のうち、計量できないものを、現代の脳科学では、「クオリア」(感覚質)と呼ぶ。もし小林秀雄が生きていて、クオリアという考え方に接したら、「君、僕が言いたかったことはそれだよ」と言ったことだろうと私は確信している。小林とクオリアについて語りあうことを夢見たことも何度もある。
 およそ意識の中で「あるもの」と他のと区別されて把握されるものは、全てクオリアである。
 赤い色の感覚。水の冷たさの感じ。そこはかとない不安。たおやかな予感。私たちの心の中には、数量化することのできない、微妙で切実なクオリアが満ちている。私たちの経験が様々なクオリアに満ちたものとしてあるということは、この世界に関するもっとも明白な事実の一つである。
 ところが、科学は、私たちの意識の中のクオリアについては、その探究の対象としてこなかった。探究の対象にしたくても出来なかったのである。一体、脳という物質に、なぜ心という不可思議なものが宿るのか、その第一原理を明かにする努力を科学は怠ってきた。方法論的に歯が立たなかったのである。
 もちろん、物質としての脳と無関係に、私たちの心があるわけではない。計量できる経験とは無関係に、計量できない経験があるのではない。
 私たちの脳という複雑な有機体も、また、物質である。物質である以上、その様々な性質を数で表すこともできるし、方程式で書くこともできる。脳の中にあるニューロン(神経細胞)の数は、「一千億」と数えられる。ニューロンが一秒間に何回活動するかは数えられる。ニューロンの中にある分子の種類も、その濃度も数えられる。そのような数の間の関係を、方程式で表すことができる。
 しかし、方程式で書けるような科学の方法は、私たち人間の主観的体験の問題に対しては、何の本質的洞察も提供しない。今、ある人の脳の活動が、方程式で書けて、その様子を巨大なコンピュータでシミュレーションすることができたとしよう。そのようにシミュレートされた脳の持ち主は、喜んでいるのか悲しんでいるのか、何を見ているのか、聴いているのか、数学のことを考えているのか、今日の昼食のことを考えているのか? そのような主観的な体験の質は、科学の方法ではわかりはしないのである。
 科学は数値にできる客観的な物質の変化を扱う。クオリアに満ちた主観的な体験は、それを定量的なデータに翻訳して初めて科学の対象となる。その過程で、小林が指摘したように、私たちの体験のほとんどの部分は抜け落ちてしまう。主観的な体験そのものを直接扱うことはできないのである。
 科学万能のイデオロギー信奉者が、できれば、主観的体験などというものは、世界から消去してしまいたいと思ったとしても当然だろう。実際、デカルトが心と物質を分離して以来、科学は、一貫して私たちの意識の中の数に直すことのできない体験の重要さを消去するというシナリオの下に発展してきた。
 そのためにまずなされたのは、私たちの主観的体験を、科学が対象としている客観的な物質の振る舞いから切り離すことであった。心の属性は、科学の対象にはならないということを宣言することであった。赤というのは、どのような波長の光に対応するのか? この問いは、数に直すことのできる問題だから、科学の対象になる。一方、いかにして、私たちの心という奇妙なものが生まれ、その中で、かくも生々しく赤という質感が感じられるのか、そのような問いは科学的ではないとして、排除されてきた。科学万能のイデオロギーの下では、科学的問いに乗らないものは、存在しないことになる。だから、クオリアは、最近の「再発見」まで、存在しないことになっていた。
 クオリアを初めとする、私たちの心をめぐる困難な問いに対して距離を置いたことは、科学が今日の成功を収めた大きな要因でもあった。一方で、宇宙の根本原理を理解したいという立場からは、科学は人類の知的欲求の不完全燃焼に過ぎなかった。私たちの主観的体験の全ては、脳の中のニューロン活動によって厳密に生み出されている。心に浮かぶ様々なものを生み出すものも、現時点では未知ではあるが、何らかの精密な自然の秩序であることを、現代の脳科学の知見は示唆している。意識もまた、自然現象でああるはずである。しかし、科学的方法論は、今のところ私たちの意識を生み出す自然の秩序の本質を解明し得ていない。
 私たちの主観的体験もまた、厳密な法則に従う一つの自然現象であると考えられる。小林秀雄の科学批判は、科学という営みの全否定ではない。むしろ、科学という営みの探究の対象を広げ、人間に見える世界を広げていこうという積極的な提案でもあるのだ。
 バートランド・ラッセルとともに大著「プリンキピア・マテマチカ」を書いたイギリスの哲学者、アルフレッド・ホワイトヘッドは、1920年に出版された「自然の概念」の中で、つぎのように書いている。
 
 自然哲学にとっては、感覚されるもの全ては、自然の一部である。私たちは、その一部分だけを都合良く選択することはできないのだ。夕日の「赤い色」の感覚は、その現象を科学者が説明するのに用いる分子や、電磁波と同じように自然の一部でなければならない。自然哲学の目的は、「赤の感覚」と「分子、電磁波」といった自然の様々な要素がどのように結び付いているかを明らかにすることである。

 その言葉こそ使ってはいないものの、ホワイトヘッドが論じているのは、まさにクオリアの問題である。「赤の感覚」、すなわち赤のクオリアもまた、自然の一部である。クオリアの起源を説明できずして、「万物の理論」を名乗るのは詐欺のようなものである。もし、私たち人間を含む宇宙という自然の根源を理解しようとしたら、私たち人間が主観的体験を持つという奇妙な事実を説明できなくてはならない。
 小林秀雄の口調は熱い。ホワイトヘッドの文体は論理的である。対照的な二人の語り口が提起している問題は、しかし、全く同じものなのである。