カフカと村上春樹の作品には、主人公が理由なくモテるという共通点がある。この構造がどのように生まれているかに着目して比較研究すれば立派な卒業論文になるだろう。カフカにおいては極端な形で顕れるが、主人公のモテが厳しい不条理状況の中に琥珀の中の古代の蚊のように閉じ込められるのが文学性。



モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』は、マックスが出会うかいじゅうたちの表情がとてもいい。いきいきとしていて、個性的で。そこでマックスがかいじゅうたちの王になった後、自分の部屋に変えると、ごはんがあたたかいままある、というのが良い。あたたかさの身体化された結末。


トールキンの『指輪物語』は、長大な作品だが、一貫して、指輪をめぐる闘いの重苦しい感情が伏流していて、その感情が作品にリアリティを与えている。すぐれた作品は、往々にして、ある根底感情の文字化となっている。根底感情を作家本人がはっきりと把握しているときに、古典が生まれる基礎ができる。


ワグナー『ワルキューレ』で、ブリュンヒルデを罰しなければならないという「制約」に縛られたウォータンを、炎で包むというブリュンヒルデの創案が救う。一瞬にして風景が変わる。あの瞬間は、芸術的創造の純粋なひな型である。神たる者よりも自由な者だけが炎を超えることができる。


サン=サーンスの『動物の謝肉祭』では、水族館と白鳥があまりにも有名だが、他のパートも、抽象絵画を見ているようで味わい深い。記憶されやすいメロディだけが立つのは、プッチーニの『ジャンニ・スキッキ』の「私のお父さん」も同じだが、他の部分もより高度、抽象的で芸術として深い。


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