人間の知性を基準に人工知能のシンギュラリティを考えるのではなく、多様性の立場から見れば、すでにシンギュラリティは起こっている。同時並列で多くのデータを処理できるタイプの知性をどうとらえるか。たとえば2万人と同時に会話できる人工知能はチューリングテストの文脈を超えている。


大学設置基準のようなものを撤廃することで、アメリカにある「42」や「ミネルバ」のような新しい形態の大学ができる。現代におけるイノベーションの進度を考えれば、認可という大学設置モデルの限界は明らかである。もっとも、脱学校化の流れを考えればそもそも「大学」というくくりが不要。


「不」登校という否定の表現ではなく、ホームスクリーングという肯定の可能性から学びの多様性をとらえることが必要である。学習者の属性によっては、教室での学びよりも遥かに深く広い学びを実現できる。社会性も教室に限られたことではない。ホームスクーリングは子どもの当然の権利だ。


脱学校化において重要なのはカリキュラムの共有である。安藤忠雄さんは学校に行かなかったが京都大学の建築学科に行っている友人に教科書などを教えてもらったという。本質は学校ではなくカリキュラムにある。カリキュラムを共有し、学ぶべきこととそのロードマップを公開すれば学びはどこでもできる。


学校は「パッケージ」で学びを提供するが、edXのようなMOOCが、単位ごとに学びを提供し、認定するようになれば、就職市場などでその認定単位のリストが評価される流れができるかもしれない。むしろ、学校というパッケージの曖昧さよりもそちらの方が確かな基盤を提供する流れもあり得る。


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