夏目漱石の『坊っちゃん』の凄さは、江戸っ子の坊っちゃんではなく、赤シャツこそが漱石自身だと見られる点にある。本人も講演で認めている。自分の一番いやらしいところ、情けないところを諧謔でメタ認知する。そのような厳しい自己認識があったからこそ、漱石は表現者として遠くまでいけた。


伊藤若冲の「動植綵絵」で印象的なのは、たとえば蛙のいる池を描くときに、葉っぱに虫食いなどがあることで、そのように生きとし生けるものがお互いに関わり合い(虫が葉っぱを食べること)、結果として不完全なかたちになること自体が生きることを全うしているという有様を示していることである。


伊藤若冲の『秋塘群雀図』で、多くの雀が飛んでいる中、一つだけ白い雀がいるのが印象的である。生物の多様性の中で、一つだけ表現型が異なるものが混じっていると考えることもできるし、白は自己意識の外形化で、「自分」がそこにいるのだと思うこともできる。個に向けられた若冲のやさしい眼差し。


ドストエフスキーの『罪と罰』は、借金に追われて、とにかく早く仕上げようと温泉保養地で口述筆記で書かれたものだが、その結果として傑作が生まれた。ロシア語話者にとってはトルストイの文体の方が卓越しているそうだが、そこに文学の本質があるのではない。文学の本質は「お化け」が宿るかどうか。


カフカの『城』はメタファーに満ちていてそのストーリーの含意を解読するのは困難だが、感情のレベルで見ると、全体としてある感情がきわめて具体的に記述されている。カフカは感情の作家だ。感情という抽象的なものを具象化する方程式が『城』であり、『変身』であり、『審判』である。


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