小津安二郎の映画に出てくる街の風景は、たしかに日常見る有様だが、現実から少し浮遊していて、プラトン的美しさに満ちている。『秋刀魚の味』で笠智衆がふらふらと歩いていく通りにあるバーの看板も、ピカピカキラキラの永遠があって、見る度に心の奥の方に染み込んでくるものがある。


アッバス・キアロスタミ監督の『桜桃の味』を見たとき、ラストの展開にほんとうにびっくりして、深い感動を覚えた。そこまでは完璧な芸術映画なのに、最後に敢えてそれを壊し、解体し、しかしだからこそ奇をてらうわけではない人間の真ん中に着地させられたような気がした。街の風景が変わった。


1915年に朝日新聞に連載された夏目漱石の『硝子戸の中』は、書き出しで「去年から欧洲では大きな戦争が始まっている」と触れるがその後世の中の大きな動きよりも自分の心の中や周辺の小さなことだけを描く。そこに最大の批評性がある。本当に大事なことは何か、漱石はその響きを聞いていた。


夏目漱石の『吾輩は猫である』は世界最高の「雑談小説」である。全編、苦沙弥先生、迷亭、寒月君などが雑談をしている。そこに知性や人生が顕れる。人工知能が発達しても難しいのが雑談である。雑談こそ人生である。雑談を楽しめる人は、幸せである。雑談は共創であり、一つの音楽である。


夏目漱石の『三四郎』は、「森の女」というひとつの絵画ができるまでのプロセスを描いた小説と考えることもできる。三四郎と美禰子の出会いがまずは一つの心象絵画である。美禰子に裏切られ、傷心の三四郎が出かける展覧会で「森の女」が完結する。その絵を前に三四郎がつぶやく。芸術が完成する。


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