ニーチェが、『悦ばしき知識』の中で、「悲劇の時代が終わり、喜劇の時代が来る」と書いた意味がずっと気になっている。悲劇は個の固定を前提にし、喜劇では主体性が移ろい、入れ替わる。フィガロの結婚やシェークスピアも見ていてもそう。この認識と、技術の進歩をかけ合わせた時に見えてくるもの。


小林秀雄は、豊臣秀吉をやっている俳優はその人とは違うから大河ドラマは見ないとか言ったそうだが、アインシュタインのドラマを見ていても似たことを思う。その人はいない。アインシュタインはある時、寒いからと下宿のカーテンを首に巻きつけてやってきたそうだ。その人はもういない。


時間の経過とともに評価が高まる(今や全ジャンル映画中トップクラス評価)『2001年宇宙の旅』は、シンギュラリティを描いた映画。「エニグマ」解読でチューリングの同僚だったグッドは「知能爆発」の提唱者ですが、この映画ではキューブリックの顧問でもありました。


評価関数自体を決めることは人工知能にはできない。それは人間が与えるわけだが、では、将来、評価関数自体を与える人工知能が出るかという問題を考えると、そこには自己言及性が生まれる。そして因果律との矛盾も生じるはず。計算の自由は人為的に浮遊させられており、根源的にあやうさをはらむ。


映画『レインマン』のモデルとなったキム・ピークさんにお会いした時、電話帳をすべて覚えるというその超絶的記憶力に感銘を受けると同時に、連想が連想を呼んで予測不可な点に感動した。コントロールされた認知実験は難しい。卓越した個性は実験的検証が不可能ではないが困難である。

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