私はそばが好きだ。

「もり」と「かけ」には、イメージの違いがある。

「もり」蕎麦には、なんとなく、通が食べるもの、というイメージがある。

蕎麦の味が最も純粋に味わえるのだろう。

蕎麦味噌や板わさなどをつまみにお酒を飲んで、シメに「もり」を食べている人がいると、「むむ、できる!」と思ってしまう。
一方、「かけ」は、温かい方のそばの基本で、「もり」ほど、通が食べるもの、というイメージがないが、やはり底力がある。

いろいろな具を入れてもいいけど、七味だけでも十分いける。

このように、甲乙つけがたい「もり」と「かけ」だが、どうやら「もり」は駄目で、「かけ」はいい、という人もいるようだ。

話が変わるが、地方の創生は大切だし、岩盤規制の緩和も大いに結構だと思う。

しかし、本当は国ができるだけ関与しない民間のイノベーションを支えるようなものが好ましいと思う。

大学は、設置基準を国が定め、認可されると莫大な補助金が投下されて、公共事業的側面が強い。

もちろん、教育は未来への投資で、大切だけれども、民間の活力につながる分野でないと、結局公的補助を奪い合っているだけのことになりかねない。

日本人は「資格」が好きだが、本当はイノベーションに「資格」は要らない。

ミルトン・フリードマンさんはリバタリアンだったが、医師や弁護士の資格も要らない、という立場だった。

もちろん、獣医師も。フリードマンさんは極論だが、一つの真実を衝いている。

一つの分野を学ぶ時に、ある程度のカリキュラムの目安はあって良いが、ビッグデータやAIがすべての分野を変えようとしている時に、医師や獣医師という「資格」がないとできない活動を厳密に定めることは、イノベーションの阻害要因になりかねない。

「もり」は駄目で「かけ」は、いい、という判断は、つかさつかさで冷静に審査した結果かもしれないけれども、以上のような理由で私には違和感がある。

なぜ、「もり」は駄目でも「かけ」はいいのか。


もちろん、地元の方にとって、待望の大学、ということもあるのだろうが、本当の地方の創生は、国に頼らない自力のイノベーションだと思う。

そのような人材がいないとか、資金が足りない、ということなのかもしれないが、そのような状況をつくれないことこそが、本来、日本の最大の課題で、補助金漬けで国家資格を獲得する学校をつくっても、本質的には解決にならないと思う。

本当の規制緩和や民間活力につながらないで、むしろ、国の補助金の継続的な注入にほかならないからだ。

もちろん、それはそれで地元は潤うのだろうけれども、時代が要請する本当のイノベーションとは「かけ」離れている。

以上はあくまでも個人的な見解で、最終的には関係の方々が判断されるだろうから、その方々の良識に委ねたい。

さて、「もり」そばと「かけ」そばの比較だけれども、これからの時期は温かい「かけ」蕎麦が美味しい。


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