沼田真佑さんの『影裏』の中で最も印象的な表現の一つは、「文藝春秋」の芥川賞選評でも複数の選考委員が挙げていたように、「そもそもこの日浅という男は、それがどういう種類のものごとであれ、何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた」という一文であろう。
 
 「ある巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向」を持つ日浅という男と、語り手がともに釣りをする、その濃密な描写が、本作の魅力の一つとなっている。

 本作が、東日本大震災とその巨大津波をモチーフの一つとしていることは、すでに各所で報じられているところである。加えて、日浅の一身上のある事情が響き合わされることで、『影裏』は、独創的な作品となっている。日浅が陶酔していた「ある巨大なものの崩壊」とは、自分自身を取り巻く世界に関わることであった。

 それにしても、人は、なぜ、破滅までの時間をやり過ごすために、釣りをするのだろうか。
 
「一時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい。」
「三日間、幸せになりたかったら結婚しなさい。」
「八日間、幸せになりたかったら豚を殺して食べなさい。」
「永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。」

 これは、確か開高健が好んで引用していた警句だったと思う。
  
 その開高健は、ベトナム戦での苛烈な経験の後に、釣りをする『オーパ!』の人となった。
 それまでの、生きること、人間の条件をぎりぎりと詰めていくような第一期開高が、「イトウだ!」と魚影を追う第二期開高に接続されていったその経緯を、私はある種の悲痛の感覚とともに眺める。
 作家は、釣りをしながら、何ものかの崩壊の予感に、いや、おそらくはすでに崩壊してしまった何ものかの残滓に向き合っていたのだ。
 
 日々変わっていく世界の中で、私たちの生命、そして意識がかろうじて息づくことができる環境が、「水たまり」だとすれば、それは、いつ干上がるか、埋め立てられるか、あるいはより大きな海にのみ込まれるかわからない儚い存在である。
 
 人は、なぜ、破滅までの時間をやり過ごすために、釣りをするのだろうか。

 人間世界のやり切れない事情の中で、釣りを、ここまで魅力的に描けたことだけでも、『影裏』という作品は成功している。


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