「東洋経済」の「教育困難大学」についての記事を読んだ。
 



 記事自体は、示唆に富むものだったが、前提になっていることのいくつかが、私には受け入れられないことかもしれない。

 記事中にもあった「アクティヴ・ラーニング」だが、これは基本的に事前知識を問うものではないし、むしろ学びや探索のプロセスを問題にするものだと理解している。

 対話型の授業の一つの範とも言えるソクラテスのとった問答法は、むしろ、余計な知識に邪魔されて見えなくなっているものごとの本質について考えさせるものだったと思う。

 だから、一般に、「こんなことも知らないのか」「小学校や高校で習っているはずだろう」というタイプの非難は、むしろ従来型のペーパーテスト的学力観に相当するもので、的外れだと私は感じる。

記事中にあった「Fランク大学」なる呼称に意味がないということは従来から指摘している通り。

そもそも「偏差値」のような指標で大学の「入試難易度」を測る、というアプローチ自体が、学力というものについてのきわめて陳腐な、しかも浅いものの見方であり、ガラパゴス化した、持続不可能な古い日本の学力観であることは繰り返し述べてきた。

私は、そもそも、「Fランク大学」の学生たちの「能力」が本当に低いのかどうか、疑いを持っている。

単に、それまでの日本の教室での一斉授業と、ペーパーテストの点数による評価を通して、一種のアパシーを起こしているだけではないかという推測を持つ。

記事中で挙げられている授業が、対話型と称して、そこでの問答が結局は「正解」を想定したクイズのようなものであることにも違和感を抱く。

「ブタ」「はまぐり」という答えが、常識のない珍解答と記事中では揶揄されているが、ひょっとしたら「ネタ」だったかもしれない。

 相変わらずの授業をしている教師たちに対して、注意を向けていない彼らが、別の局面では目を輝かせて熱中することは大いにあると私は推測する。

 「教育困難大学」をめぐる本当の「困難」とは、この記事にも見られる、前提とされている古臭い学力観の方であると、私は強く感じている。

 一見無気力に見られる彼らが、疾走し始めるような独創的なカリキュラムの開発こそが今日の教育界において求められている最大のイノベーションであって、そのような変革は、旧来型の学力観をなぞっているだけでは決して実現できない。

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