隅田川花火の日、西洋美術館でのニコ生の仕事が始まるまで少し時間があったので、東京の街を歩いた。

 上野の方に向かって、雨の中を歩いた。

 少しは期待があった。花火が見えるのではないかなと。
 
 ぼくの想像の中では、花火は、川の上で大きく花開いて、それは、遠くからも見えるのだった。かすかな光の柱として望見できるような、そんな大きな存在であるように期待された。

 ところが、東京の街は、ビルだらけなのだった。
 
 十字路に来る度に、あちらに見えないかな、と期待して目をやるが、見えるのはどんよりと曇った黒い空だけだ。

 音は聞こえている。ぽーん、ぽーんと上がっている響きはある。打ち上げられているのは気配でわかる。だけど、光は一向に見えない。

 ついに、花火の打ち上げの時間は終わり、暗闇は静かになった。
 ぼくは、なんだががっかりしたような、そしてほっとしたような気がした。

 ぼくの想像の中では、川辺で花火が打ち上がっている。
 それは、近くからは大きく華やかに見えるが、遠くからも、微かな光の柱として小さく見える。
 その見え方の変化は、川からの距離に従って、連続的に続いていく。

 そんな花火大会が、心のどこかに、きっとものごころついた頃から、一つの原風景として住み着いている。
 
 その原風景の中には、商業活動や生活のために不可欠な、ありがたい素晴らしいビルの群れはなくて、ただ、ぼくたちと花火だけが世界の中で向き合っている。

(クオリア日記)


tacohanabi20160408