藤井四段の29連勝は、ほんとうに凄い。
このことによって、将棋界は新しい時代に入ったのだと思う。

先日、ある将棋界をずっと取材してきた有るメディアの方とお話した時、羽生善治さんの7冠フィーバーの際もすごかったが、今回は、それにさらに熱が加わっていると話されていた。

藤井四段の活躍で、将棋界に注目が集まるのはすばらしいことだと思う。

人間とAIの対決、という視点から見れば、将棋も、囲碁も、すでに勝負がついている。

しかし、AIの方が人間よりも強くなったら、人間の対局には興味がなくなるかもしれない、という一部の懸念は、心配ないように思う。

AIと人間では、そもそも勝負の条件が異なる。

膨大なメモリーと、計算量に支えられたAIと、記憶力や単位時間に処理できる情報の量で制約がある人間の脳を単純に比較するのが土台無理である。



「フロー」で有名なチクセントミハイは、意識の中で処理できる情報量は一秒あたり110ビット程度と推測している。


限られたバンド幅の中で、人間の棋士は盤面に集中し、これまでに学習した知見を総動員して、最善手を探す。そのような闘いだからこそ、私たちは興味を持ち、感動する。

AIの台頭によって、将棋は、さらに「スポーツ」としての性格を強めていくのだと思う。


「速く走る」という点においては、人間は自動車のような機械にはもちろん叶わない。
しかし、だからといって、陸上の100メートル走の意味が消えてしまうわけではもちろんない。

生身の人間が肉体の限界に挑戦して、100メートル走る。その鍛錬、姿に、私たちは感動する。

将棋も同じことだろう。将棋のアルゴリズムや評価関数は100メートル走に比べて複雑で、「ブラックボックス」に見えるが、生身の人間が物理時間の中で模索し、最善手を目指すという点においては、100メートル走と共通している。

100メートル走もまた、スタートでの飛び出し、その後の姿勢、足の運び、腕の振り、集中の上昇、維持という「アルゴリズム」の全体を精緻に見ると、そこには複雑な様相が顕れてくる。

人間が、リアルな時間と空間の中で、自らの振る舞いを精緻に高めていく、そのスペクトラムの中に、100メートル走も、将棋もある。

彗星のように現れた藤井四段の活躍で、将棋は、スポーツとしての新時代を迎えようとしているのである。


sleepingnekoandbird20160331