政治家の方が、ふつうは読めるはずの漢字を読めない、ということが時々ニュースになる。

そして、そのことが、その政治家の方の知性や教養の程度が疑われる証拠になる、というような議論、そして風潮がある。

ぼくは、その度に、そうかなあ、と感じる。
漢字が読めるかどうか、というのは、極めて単純な指標である。

確かに、日本語で書かれた文章、特に書籍をたくさん読んでいれば、漢字の読み方も自然に覚えるから(最近はルビがふられることは少ないので、大量に読んでいても、読み方を自己流にしてしまっている方もなかにはいるかもしれない)、読めないということは、読書量が足りないとか、教養がない、ということを推定させる証拠になるかもしれない。

一方で、知性や教養の代表的指標が漢字である、という日本の知性観、学力観が、絶望的なほど単純で、幼稚であるとも感じる。
知性の強靭さとは、そのような知識のデータベースとは無関係な、思考における批評性や、緻密さ、論理性である。

いくら漢字を知っていても、論理的かつ批評的に考えられない人は、知性が低いと思う。

逆に、漢字の間違いをしても、論理的かつ批評的に考えられる人は、知性が高いだろう。

私は、そもそも、「漢字検定」を含め、「検定」の類に全く興味がない。
「検定」という、何らかの正解・不正解のテーブルがあって、それとの照合で成績や合否が決まるようなタイプのアプローチでは、ほんものの知性は測れないと信じているからだ。

つまり、漢字が読めない政治家さんの知性は、それとは独立して判断すべきだと思うが(そして、確かに、論理的思考や批評的思考の能力が疑わしいケースは多いと思うが)、漢字力のようなものが、知性の指標として使われる日本の学力観、知性観そのものが、この国の発展を妨げている幼稚な価値観である、と私は考える。

だから、しばしば、社会人の方などが脳を鍛錬するために「ナントカ検定」を受ける、というような話を聞くが、私はあまり推奨しない。

ちなみに、国会答弁などで、政治家が漢字を読み間違えるのは、そもそも答弁を官僚が下書きしてそれを棒読みしているからで、そのような構造自体が問題だ、という指摘もあるようだ。
日本の国会の審議の仕方が形骸化していることは常々指摘していることで、それはまた別の議論が必要だろう。

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