昨日、先日の講演の後で、児童精神科医の方がいらして、「茂木さん、失礼ですが、子どもの頃、発達障害と診断されたことはありませんでしたか?」と聞かれた、という話を書いた。

 その際、私があまり動揺とか、驚きを感じなかったのは、「まあ、そういうこともあるだろうなあ」というくらいにしか思わなかったからである。
 
 しかし、一般には、「発達障害」(developmental disorder)という「診断」をつけられたら、動揺されるお子さん、親御さんが多いだろう。

 医者などの「専門家」から、「お子さんは発達障害です」という「診断」を受けたら、それを絶対的な「真理」として受け止め、「どうしよう」と思うのは、人間の心理として、自然だろう。

 しかし、実際には、神経学的に「典型的」な人と、「発達障害」の人の間には、無限の段階(スペクトラム)がある。
 発達障害であるかどうかは、さまざまな基準で判断するが、それは絶対的なものではない。
 むろん、診断基準そのものは、さまざまな科学的知念に基づいて構築されてきたもので、それなりの根拠があるのだけれども、人間の多様性を、ある境界で区切るのだから、その振り分け自体は人為的である。

 そのことは、専門家はわかっている。しかし、必ずしもそのニュアンスを伝えていないし、伝わらないだろう。

 学習障害と診断されることで、適切な支援を受けたり、学習環境を整備されたり、場合によっては医学的な処置を受ける、というメリットはあると思う。

 一方で、「学習障害」という名前が一人歩きしてしまって、必要以上にご本人や家族が気にしてしまったり、それによって自由が奪われてしまうと、本末転倒になってしまう。
 私のように、児童精神科医の方に今になって「発達障害では」などと言われて、しかしこれまでそんな意識も特になく生きてきたケースもある。

 人間の多様性を科学的に解明することも大切だし、その中の、助けを必要とする方々を「診断」することも大切だが、そのような「診断」が一人歩きすることは、科学的な真実から遠ざかるだけでなく、その方々やご家族にも、あまり良い影響を与えないように思う。

 だから、心から申し上げます。
 「発達障害」という診断がたとえあったとしても、それをもとに、特別な配慮や、工夫、場合によっては治療を受けることはよいとして、必要以上に絶対視したり、自分や他人を、それによって決めつけることはうめてください。
 そのような態度は、発達のためにかえってよくないと同時に、科学的にも真実から遠ざかることになってしまいます。

 すべては、多様性の中で、つながっているのです。
 そこに「区切り」を設けるのは、人間です。


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