ぼくは一応法学士ですが、今日委員会で採決されるらしい「共謀罪」が、刑法の法体系を根底から変えるということだけはわかる。

それ以上、その妥当性については、正直、100%の確信は持てません。

巷言われている、国際条約の批准のために必要だという論も、それが妥当なのかどうか、確信はない。

英米法の刑法体系にはあるconspiracyの概念と比較してどうなのかも、わからない。
取り沙汰されている、戦前の治安維持法の復活うんぬんということも、そのような概念的懸念はあるだろうけれども、実際にはどうなのか、よくわからない。

法務大臣の答弁は、正直、むちゃくちゃだと思いますが、元々大臣というのはそのような存在で、官僚機構、内閣法制局がしっかりしていれば大過ない、という考えもあるかもしれない。(これは、イギリスの政治コメディの金字塔、Yes, Ministerに貫かれている感覚でもありますが)。

つまり、ぼくは共謀罪に賛成でも反対でもありません。よくわからないというのが実感です。

しかし、国会審議と、採決のプロセスには大いに不満がある。
もはや国会には期待していない、と言ってもいいかもしれません。

国会は立法府です。
なぜ代議制をとっているのかと言えば、以上のように、生活者にはよくわからないけれども、議員は専門家で、それについてフルタイムで調べて、考えているから、委託できるのだろうという前提がある。
しかし、その前提が崩れているように思います。

人間の理性は、組織で決まっているわけではない。
共謀罪のような重大な法体系の変更を伴う法案の採決にあたっては、一人ひとりの議員さんが、良識に従って精査し、その結果賛成、反対の態度形成をするというプロセスがなければならない。

しかし、国会は、そのようなことは例外的な事例でしかなく、いわゆる「数合わせ」で採決結果は決まっているようです。

そのことが明確になって以来、ぼくは、基本的に国会には期待しなくなりました。

もちろん、自民党の議員さんからの共謀罪への反対だけでなく、民進党の議員さんからの共謀罪への賛成もあっていい。

一人ひとりの良心で判断するならば、当然、造反は双方向になるでしょう。

そのようなことがある程度の確率であってこそ、国会は機能していると言えるのであって、そうではなくて、賛成にせよ、反対にせよ、あらかじめ数で決まっているのならば、そんな国会に期待したり関心を持つのが時間の無駄だと感じても仕方がないことでしょう。

国会が数合わせならば、共謀罪は可決されて、成立するのでしょう。

それが民主主義だと言われても、以上申し上げたような理由で、ぼくは同意できません。
国会における議論とは、形式的な審議時間を積み重ねればそれでいいものだとは思えないからです。

ぼくは、共謀罪に賛成でも反対でもありません。
できれば、代議制の下、専門家に任せたい。
ところが、その専門家である議員たちが、自分で考える理性を持つ人間ではなく、単なるロボットになっているとしたら。。。

yozakuraneko