「面白さのしきい値超え」の過程では、これをやったから何が得られるという見返りなどを考えずに、ただひたすら、プロセスとしての所作を繰り返す、ということが求められる。そうやって、ようやく何かが得られる。

「面白さのしきい値超え」は、「悟り」に似ている。修行僧が、これをすると何が得られるということを考えずに、ただ所作を繰り返す。そのようなプロセスの先に「悟り」が得られるような、そんな流れと同じなのである。

禅僧の南直哉さんにうかがった話では、永平寺の修行システムは、まさに、何も求めず、問わずにただ日常の所作を繰り返すというものだと言う。そのような作業の繰り返しが結局は悟りへの道だということが長年の経験でわかっている。

永平寺では、これだけのことをしたらこれだけのメリットがあるというような発想が徹底的に否定される。それどころが、自分が自分であるというアイデンティティさえ消し去られる。何をしても何を言ってもそれでどうこうということがない。

これだけ修業をして偉いとか、それだけ積み上げてこうだとか、そのような、自己のアイデンティティに基づくポイントシステムのようなものをすべて否定したところで、日常の所作を繰り返すところに、永平寺の根幹がある。

ふしぎなことに、そのようにして、自己の存在もメリット・システムも否定したところで日常を繰り返していくうちに、「悟り」はある。人間の生理はそうなっているという長年にわたって積み上げられてきた一つの叡智があるのだろう。

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