大学生の頃、部屋にピーテル・ブリューゲルの『子どもの遊び』のポスターが張ってあった。随分大きなもので、壁の面積をだいぶとっていたように思う。

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 勉強の合間などに、時々顔を見上げて眺めた。いくら見つめていても、飽きることがなかった。輪を転がして遊ぶ者。川の近くで、スカートを広げて座る女の子たち。樽に乗る少年。お手玉をする人。袋のようなものを膨らませる女。自分の足に手をからませて、世界から背を向けるように座っている男。逆立ちする人物。スイカ割りのような遊びに興ずる一群。 
 

 すべての仕草の意味がわかるわけではない。込められた寓意が読み取れるのでもない。それでも、ただただ面白くて、眺めていると時の経つのを忘れた。
 

 ペートル・ブリューゲルは私の最も愛する画家の一人で、美術館などで作品に出会うとずっとその前に立っている。そして、自分の部屋で『子どもの遊び』を見ていた時と同じように、飽きずに眺めている。時が許す限り、いつまでも経っている。なぜ、ブリューゲルの絵にそれほど惹き付けられるのかと思う。
 

 「俯瞰と接近」が鍵だと気付いたのは、脳の研究を始めてからのことである。ブリューゲルの絵においては、さまざまなものが「俯瞰」されている。例えば、『雪中の狩人』。

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 犬たちを引き連れて、狩りに出かける男たち。犬の群れを先導している三人の人物が絵の中心であることはもちろんだが、同時に、さまざまなものが並列して見えている。男たちの背景では、たき火をしている。遠景の氷上では、スケートをしたり、ホッケーのようなこと、カーリングのようなこと、思い思いに遊ぶ人たちがいる。空には鳥が飛んでいる。木の枝に止まっている鳥もいる。これらすべてのものが、『雪中の狩人』では「俯瞰」されている。
 

 その一方で、絵を見るものは一つひとつのものにいつの間にか「接近」している。ブリューゲルの絵の最も驚くべき性質の一つは、画面の中の誰にでも「感情移入」することができることである。「私」は、一番右側にいる狩人かもしれない。スケートをしている赤いスカートの女かもしれない。遠景の氷上でスティックのようなものを振るう男であったかもしれない。
 

 それどころか、人間である必要すらない。「私」は、尻尾を巻いてトボトボと歩く犬だったかもしれない。あるいは、大空を舞う鳥だったかもしれない。絵の中に描かれた一つひとつのものに「接近」し、それを自分に置き換えることができる。そのような特徴がブリューゲルの絵にはあるのである。
 

 「俯瞰」と「接近」。相反するように思えるアプローチが一つの絵に共存する。ここに、ブリューゲルの芸術の重大な秘密がある。一人ひとりが、大切な存在として尊重される。かといって、特定の立場にとらわれてしまうのではない。すべてを見つつ、一人ひとりの立場にも寄り添う。そのような「奇跡」が、ブリューゲルの絵にはある。


 「俯瞰」と「接近」がもっとも高度な形で表れているのが、『
十字架を運ぶキリスト』。キリストが、自らが磔される十字架を運んでいる。救世主の受難。通常の宗教画の文法ならば、キリストだけをクローズアップする。しかし、ブリューゲルにおいては、すべての人が平等に俯瞰されている。それでいて、作者や見る者の目が、キリストその人に「接近」していることは疑う余地がない。


 『
十字架を運ぶキリスト』を一つの頂点とする、俯瞰と接近の共鳴。ブリューゲルの絵は、人間と世界の関係についての何か重大な真実を私たちに伝えている。

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茂木健一郎 『モナリザに並んだ少年』 (小学館)より。