あれは4歳くらいのことだったか、昆虫図鑑を熱心に見ていたら、その中にアカタテハの絵があった。
野原にいる昆虫、といったテーマの頁で、草むらの中にカマキリやバッタ、てんとう虫、それにアゲハやモンシロチョウ、モンキチョウといった蝶に混じってアカタテハの姿があったのだ。
他の生物もそうであったが、アカタテハもまた、羽根がちょうどカッコイイ姿になるように、ポーズを決めて描かれていた。
標本にされた蝶の、羽根を均等に広げているあの姿とは違う。やや斜めに傾いた、今にも飛び出しそうな勢いのある素敵な姿だったのである。
まだアカタテハを見たことがなかった私は、野外に本当にそんなかたちでそのような蝶がいるものと信じてしまった。まだ、現実と空想の区別が余りついていない年頃のことである。
それから、野外に行く度にアカタテハを探した。しかし、アカタテハの個体数はそれほど多くないから、当然なかなか見つからなかった。モンシロチョウやアゲハならばたくさん飛んでいたのだけれども。
ついに出会えたのは、近所の草むらである。あまりにも印象深かったので、今でもその場所を鮮明に覚えている。5歳になるかならないかのある日、線路が走る横の場所で、アカタテハが飛んで来たのである。
それは不意打ちだった。空気を切り裂くように、黒い塊が侵入してきた。そして、その塊は地面に降臨して、やがてゆっくりと羽根を広げた。
それはまごうことなきアカタテハの個体だった。羽根は生命そのもののように打ち震えていて、私は胸がいっぱいになってしまった。
そして、目の前の生きるアカタテハは、図鑑で描かれていたものとは全く違っていた。
あの幼き日以来、私はずっと生命について考えている。実際に生きているものと、私たちが生命と思っているものは違う。そのズレこそが時間であり、得体の知れない生命というものの本質であると。