今朝は、世間のさまざまな方々(ここでは、「ひとびと」と呼ぶことにする。民衆とか、大衆とか、いろいろ書けるだろうけど、「ひとびと」と書く)のことが気になるので、昔の表現から、二つのことを書いてみたいと思う。 

一つは、「ひとびと」には、本質を見抜く力がある(かもしれない)ということである。ワグナーの『マイスタージンガー』では、若い騎士ワルターの歌を、専門家であるマイスターたちは理解できない。歌合戦の本戦で、ひとびとが審判になって初めて評価される。心が動いたのである。

専門家よりも、ひとびとの方が知識や思い込みに邪魔されずに作品を評価できるというのは一つの理想だろうが、一つの現実でもあるのだろう。現代においては批評家がどうこういう作品よりも、ひとびとがそこに押しかけるベストセラー、ヒットにやはりすぐれた資質があるという思想につながる。

一方、ひとびとは時に残酷でもある。許さない。攻撃する。ポピュリズムの悪い側面もある。聖書はとてもよく書けているが、この中で、キリストを処断するピラトが、最後に、ひとびとに、キリストを無罪放免にするチャンスを与えたとある。

ひとびとは、キリストを許そうと思えば許せたのに、ピラトの意図に反して、むしろ処断を求めた。つまり、キリストを十字架にかけたのは、最終的にはひとびとである。ひとびとにはそのような側面もあるのだと、聖書は見抜き、書いている。

人生の機微に心を動かされ、涙するのもひとびとだが、人を許さず、糾弾するのもひとびとである。そして、ひとびととは、あなたのことであり、わたしのことである。ひとびとのふるまいは、自分のふるまいを映す拡大鏡だ。他人事ではない。

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