ぼくは、ピカソの絵が好きで、特に、だーっと描いた、余白だらけっぽいのが好きだ。以前、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で猫とオマール海老の絵を見てすげえなあ、と思ってしまった。だーっと描いたのに、絵になっているのだ。
ブリジストン美術館にある、画家とモデルを描いたピカソの絵も好きで、自由奔放にだーっと描いていて、しかもその筆がぜんぶ生きている。そういう絵を見ると、ほれぼれしてしまう。ああ、いいなあと思う。
モネの絵などでも、筆の跡がわははとわかるやつがある。日傘をさした婦人の絵など、髪の毛がだーっと空との境目でテキトーに筆が走っているのがわかって、それが、離れてみるとちゃんと精緻な印象になっているところが、すごいなあと思う。
静謐をきわめているような印象のあるフェルメールだって、真珠の耳飾りの少女など、実物をよく見ると筆跡があきらかにだっ、だっ、だっ、とわかることがある。案外粗いのに、全体として精緻な印象を与えているところが、フェルメールの凄いところだと思う。
ここまでこう書いてきて、何が言いたいかというと、筆跡がわかっちゃうような描き方は古典的に見ればアウトなのかもしれないが、実に魅力的だなあ、ということで、つまりはそこには、画家の生命の躍動があり、一回性があるからかなあ、と思うのである。