内田樹さんの、「先生というのは、何を教えてくださるのかわからないけれども、その人といっしょにいると、何かが学べる、と思える人」という定義がわたしは好きだ。先生は、単に、情報を伝える人ではない。

今朝、コーヒーを飲みながらぼうっとしていて、そうだ、先生というのは、この世の中で、良いもの、進むべき道を知っていれば、それで十分だな、という気もした。また、そのような人を、私も先生だと考えてきたような気がした。

たとえば、小説でも、ベストセラーや有名作というのではなく、その人が生涯の中で見つけてきたちょっと渋い、しかし読んで見ると確かに深い作品を愛し、さりげなく教えてくれる人は「先生」だと思う。たとえば、ヘミングウェーの『海流のなかの島々』。

岸見一郎先生 @kishimi は、アドラー心理学で有名になられたが、先日お目にかかった時、ご専門のギリシャ哲学の話をされて「翻訳ではなく古代ギリシャ語で読むと、それまで白黒だった世界が急にフルカラーになるような思いがある」と教えてくださった。だから、私にとっての、先生である。

将来、人工知能がおすすめの音楽や小説、映画のリストを教えてくれる時代がくるかもしれないけれども、自分にとっての「先生」が愛する、ないしは尊敬するものたちは、その先生が人生の有限の時間をかけて、いわば身体で体得してきたものであることが尊い。

最近は、小中学生と話すと、「最近好きなものはなに?」と聞いて、ゲームやラノベ、アニメ、漫画などの彼らの中のトレンドを聞き出す。そのような時、小中学生がぼくの先生になる。「オトメイト」も「弱虫ペダル」もそうやって教えてもらった。自分が触れる時間はなかなかないけれど。

 
連続ツイート