アメリカ大統領選挙は、トランプ候補の信じられない失言が表に出たことで、様相が変わろうとしている。多くのメディアが、「彼を選ぶことはできない」と論調を張り、共和党内からも、トランプでは駄目だ、という声が続出している。

もっとも、トランプさんの支持者の中には、どんなに批判を受けても「馬耳東風」の方々がいて(どの国にも、どんなにアチャーな感じでも、頑なに自分の意見を保つ、つまり議論すること自体が意味のない人たちがいる)、そんな方々は、相変わらずトランプさんを支持し続けると予想されているようだ。

さて、私が非常に面白いと思ったのは、今回のトランプさんの失言(それが、別に意外でもなんでもなく、やっぱり、という感じなのが情けないところなのであるが)を受けて、トランプさんは候補から降りるべきだとか、副大統領候補のマイク・ペンス氏に譲るべきだという議論が出ていること。

民主党、共和党の各政党の「大統領候補」の選出規定がどのようなものであるかは知らないが、共和党の予備選挙の時でも、各州で選出された代議員が、各州の選挙結果と違う投票をすべきだ、というような議論があった。つまり、実質、「なんでもあり」なのである。

通常のプロセスにおいては、このような形で選挙が進むが、実質において、それとは異なる状況になったときには、その「実質」に従う。このようなアメリカ大統領選挙のあり方は、ある意味では、健全だと思う。形式的規則には、縛られていないからだ。

これが、コモンセンスを重視する英米法の考え方と連なるのは見やすい。一方、日本は大陸法の法体系であり、もともとも形式主義の芽もあって、実質ではなく、形式に拘泥しやすい。それが日本社会の脆弱性だと、以前から思っている。

例えば、最近巷(の一部の人たち)を賑わせている「二重国籍」の問題も、日本の論調は、手続きをしたかどうか、という形式主義に堕しやすい。そのことが、日本のマインドセット、制度上の脆弱性であることは、見る人が見ればすぐわかる。

アメリカ大統領選挙で、トランプさんのような人が候補になってしまうのはアメリカの脆弱性だとも言えるが、一方で、形式に拘泥せず、実質に即した判断、運用をするのは健全だと言える。枝葉末節に拘泥する「形式大王」の多い日本は、大いに見習うべきだろう。

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