2013年に、国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」http://archive.momat.go.jp/Honkan/bacon2013.html が開かれた時、企画され、展覧会を実現した学芸員の保坂健二朗さんの言われたことを、昨日、ふと思い出していた。

保坂健二朗さんは、フランシス・ベーコン展がやりたくて美術館に入った、というくらい、かの大作家に対する愛の深い方なのだが、その保坂さんが、ベーコンの代表作、「トリプティック」http://www.tate.org.uk/art/artworks/bacon-second-version-of-triptych-1944-t05858 を前に、ある単語をつぶやかれたのである。


francisbacontryptic

 

その単語とは、「グランド・マナー」。ベーコンの主要作品には、「グランド・マナー」があると。美術史上のこの用語の位置づけは https://en.wikipedia.org/wiki/Grand_manner  のようなものだが、私は、雷に打たれたようになり、保坂さんの言葉からいろいろな連想が広がっていった。

「グランド・マナー」とは、人間のほんとうのところ、芯の姿、もっとも大切な魂の問題を、具体的なかたちとして見えるものにした、ということだと思う。フランシス・ベーコンで言えば、あのトリプティックのキリストの抽象化された形態が、人間、生命、魂の根幹の何かを表している。

芸術は多様で、さまざまな表現があって良い。野に咲く花の可憐さを描いてもいいし、宇宙の広大を示してもいい。その一方で、人間が生きるということのぎりぎりの真実を示す「グランド・マナー」が芸術の中核にあるというのはおそらく事実だし、これからもそうあり続けるだろう。

「グランド・マナー」は、美術に限ったことではなく、すぐれた小説や映画には、必ずそれがある。今年没後100年の夏目漱石の小説は、結局、それを描いていたという評価も可能だと思う。あの「猫」だって、実は「グランド・マナー」の変形であり、だからこそ可愛らしく、そしてどこか恐ろしい。

フランシス・ベーコンの「トリプティック」のような作品が、美術史上で高く評価され、鑑賞され続けていくという事実に、私は人間への信頼の礎を見る。河合隼雄さんは「中心を外さないこと」の大切さを説かれたが、芸術における「グランド・マナー」は、一つの中心だと思う。