今朝の新聞に、英語教育の重視に反対する政治学者の方の論が出ていた。施光恒(せ・てるひさ)さんのインタビュー記事で、英語の重視はエリート層と非エリート層の分断を招き、民主主義の危機をもたらすというのである。
個人の個性の重視が語られる割には、言語の多様性は尊重されない。世界には数千の言語があり、多くが絶滅の危機にある。日本語は比較的話者が多く、安泰だが、それでも、英語に比べればひ弱である。今後の日本語の地位については、楽観できない。
人工知能の翻訳機能の飛躍的に高まれば、将来、すべての言語が平等になる時が来ないとも限らないが、まだその時期は見えない。当分は、リングァ・フランカとしての英語を重視せざるを得ないし、教育の中でも取り組んでいかなければならないだろう。
従来の日本の英語教育の問題点は、それに投入している時間が多い割には成果が上がっていないことだろう。これは、教育法、学習法の工夫で克服できることで、必ずしもすべての授業を英語でやるというような、ドラスティックな変化は必要ない。
大学での英語での授業は、一部はやっても良いだろうが、すべてに及ぼすのは意味があるとも、現実的だとも思えない。英語ベースのliberal arts collegeはぜひもっとあるべきだと思うが、すべての大学がそうなれ、というのもナンセンスである。
英語教育についての一番健全な態度は、たかが英語、されど英語というバランス感覚をつけることだろう。日本の国際教養系の学生は、傾向として、英語は喋れるけれども、理数系のような深い知識には欠けることが多い。オタク力と英語力がトレードオフの関係にあるのだ。
英語教育重視、といっても、日本国民が英語ペラペラだが頭からっぽ、の状態が目標ではないはずで、いかに数理的オタク力と、英語力を両立させるかは重要な課題である。ただ英語力を重視するだけでは、教育のポリシーとして著しくバランスに欠ける。
何よりも問題なのは、相変わらず、文科省が方針を決めて、それに国内の教育機関が従うという「前提」だろう。望ましいのは、各学校がそれぞれ言語政策を決めて、自由に競争することで、トップダウンで一律に決めるという発想自体が、知的強靭さを著しく毀損する。