「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」を仕上げ、さらにはもう一本、ヤンキースファンとメッツファンの違いについてユーモラスに考察したエッセイを書き終えたジャックは、時計を見ると、急いでカフェを出た。
シャーリーとの待ち合わせ時間が近い。
時間を守る、という要求や、記事の企画、内容についての批評において、シャーリーは、過酷な女性だった。しかし、ジャックには、高校生の頃から、そのような人からの打撃を受けいれるためのスイートスポットがあり、やられても、ダメージを受けることなく、再び立ち上がれるのだった。
つまりは、ジャックは、シャーリーを、仕事上だけでなく、心理的に必要としている。
「ベイン」(Vain)と大きく書かれたガラスのドアを開けると、そこはシャーリーの居城だった。
ベイン。そう、人生は、どうせ無駄。意味がない。しかし、だからこそ、ファッションとか、ガジェットとか、ライフスタイルとか、そのようなものの新しさを人々は求め、無限運動の中に消費する。
シャーリーが編集長になってから、『ベイン』は部数を大きく伸ばし、広告も好調だった。紙メディアの絶滅が危惧される時代におけるこの異例なまでの成功は、シャーリーの攻撃的でエッジの立った編集方針に寄るところが大きかった。
中でも、ブルームバーグのCEOとホームレスの男性を、72時間、実際に入れ替えた「ソーシャル・スワップ」の記事は、シャーリーの記念碑的な仕事と言って良いだろう。ブルームバーグのイメージが好転し、株価は上がり、一方、ホームレス男性はNBCのドラマの役を獲得して、その後、スターダムに上がった。
多くの人を怒らせ、ソーシャル・メディアを炎上させてこそ、初めて、価値のある記事になる。それが、シャーリーの信念だった。
「トムって名前の男なんだけど……」
席に座ったジャックがおずおずと切りだすと、シャーリーはタブレットに落としていた顔を上げた。黄金の巻き毛に包まれたシャーリーの表情は、にこりともしない。儀礼的な挨拶もない。
シャーリーの目は、いつも洞窟を思い起こさせる。氷河期において、祖先が、洞窟から外を見ていた頃の、雪原の輝きを連想させる。
「何が特別なの?」
シャーリーは容赦無く聞いた。
勝負は、数秒のことだ。
「彼は、自然神学をやっていて……つまり、啓示ではなく、理性で神の存在について考える学問で……それで、昨日、神学上の論争で、学校を破門になったばかりなんだけれども……」
「会ってみましょう。」
シャーリーの決断は、いつもように素早かった。しかし、「YES」は、事態の好転を必ずしも意味しない。