東京大学野球部の宮台康平さんが、東大としては21季ぶりの完封をされた、ということでニュースになっている。宮台さんは逸材で、ドラフト候補でもあるという。一度、その投球を生で拝見したいなと思う。
ところで、期待の逸材である宮台さんのご活躍とは別の話なのだけれども、東大野球部が「勝ち点」を上げたりすると、それだけでニュースになるのが、昔からおかしいと思っていた。そのおかしさは、メディア側と、東大側の両方にある。
メディア側で言えば、六大学野球を純粋にスポーツとして見るのではなく、勉強をがんばっている(しかしスポーツは苦手なはずの)東大野球部が勝った、というバイアス(ないしは「物語」)を通してものごとを見ていることが、見え隠れする。
そして、東京大学側の問題で言えば、以前から申し上げている、入学者の「多様性」の問題である。現在の学力試験一点張りの入試が、「公平」なものだとは、私には思えない。形式的公平ではあっても、実質的にはそうではない。学生の多様性が欠けているのだ。
以前、マルコム・グラッドウェルの著書を読んでいて面白いと思ったのは、ハーバードはたとえばバスケットボールで卓越した人の入学枠を設けていることで、もちろん、学ぶ情熱や資質も見るのだろうが、スポーツの実績で入ってくる学生たちがいる。
単純に学力試験の点数だけでなく、バスケットボールや、演劇や、もちろん数学やテクノロジーや、さまざまな分野で卓越した学生が同じクラスルームにいることの効果を、グラッドウェルは解説していた。以前は、ハーバードもそこまでは多様性を重視していなかったとのことだ。
東京大学が、野球で卓越した人を、何人か入れる(もちろん、学問への情熱や資質も含めて判断する)ようになれば、勝ち点を上げたとか、何季ぶりに完封したとか、そういうことはニュースにならなくなるだろう。その方が、学生の多様性という視点から見て、健全だし、大学にも資すると私は思う。
また、もう少し別の見方をしよう。たとえば、学習障害や、難読症などの「脳の個性」で、いわゆるペーパーテストでは点数を上げられないが、学ぶ意欲が強烈にある、という学生もいるだろう。そのような学生は、東京大学へのアクセスを、妨げられるということでいいのだろうか?
学生の多様性の確保は、政治的に正しいテーマだけでなく、具体的にどのように選抜するかという点において、高度な知識、見識、ノウハウが必要となる。ペーパーテストの点数だけに頼る入試は、そのような技術の蓄積を、大学側に促さない。