(2020年に書いた文章です)

 

茂木健一郎

 

 宮崎駿が生み出してきた数々のアニメ映画は、今や日本だけでなく世界中で愛される、芸術の「古典」になりつつある。

 『風の谷のナウシカ』、『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、『紅の豚』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』、『崖の上のポニョ』、そして『風立ちぬ』。

 これらの音楽のすべてを、久石譲が担当してきたということは、日本の芸術史の中でも特筆すべきことだろう。宮崎が原画、原案、脚本を担当し、高畑勲が監督した『パンダコパンダ』や、宮崎の初監督作品『ルパン三世 カリオストロの城』を除いて、宮崎駿のアニメ映画のすべてに久石譲が音楽を提供してきている。『天空の城ラピュタ』以降は、スタジオジブリによる制作であり、鈴木敏夫によるプロデュースと相まって、一つの黄金時代を築いてきた。

 宮崎作品において久石譲の音楽が果たしている役割が重要であることは、愛好家は皆知っている。久石の音楽がなければ、スタジオジブリの映画がこのような形で世界中で受容されることもなかったろう。

 映画における音楽の役割は本質的である。1895年、リュミエール兄弟による世界初の映画の上映会では、ピアノ演奏が行われた。映画という芸術の初期には、投影機の大きな立てるノイズを消すために音楽が必要だったともされる。1920年代、ドイツのフリッツ・ラングのSF大作『メトロポリス』では、オリジナルな音楽スコアが付加された。喜劇王チャーリー・チャプリンは、その監督、主演する映画で使われる音楽を自ら作曲した。

 20世紀以降において、映画音楽はクラシック音楽の主要なレパートリーとみなされるようになっている。セルゲイ・プロコフィエフがセルゲイ・エイゼンシュテインの映画のために作った音楽や、ヴォーン・ウィリアムズが映画 『南極のスコット』のために作曲し、後に『南極交響曲』へと発展した音楽などは映画から独立した形でも高く評価されている。

 久石譲は、武満徹やカールハインツ

・シュトックハウゼンにインスピレーションを得た現代音楽の作曲家として出発し、「微細な変化がとても重大な変化に感じられるようになる」ミニマル・ミュージックの運動に身を投じた。今も現代音楽の作曲家として精力的に新作をつくり、演奏しつづけている久石譲。その作曲家としてのキャリアの中に、宮崎駿のアニメ作品とのコラボが位置付けられたことは、なんと幸運なことだったのだろう。

 1997年公開の『もののけ姫』は、当時の日本映画の興行収入記録を破る大ヒットとなった。宮崎駿が作詞、久石譲が作曲した主題歌『もののけ姫』も大きな話題となり、歌った米良美一をスターダムに押し上げた。北米市場ではミラマックスを通して配給されるとともに、DVDなどの売上げを伸ばすこことによって、「スタジオジブリ」の名がさらに広く知られるきっかけともなった。

 久石譲は、『もののけ姫』の制作に向けた打ち合わせにおいて、宮崎駿がこの作品を今どうしてもつくらなければならないと思っているその迫力に押されたとしている。宮崎駿の側は、毎回映画をつくる度にふさわしい作曲家を探すけれども、いつも久石譲にたどり着くのだと証言している。二人の情熱が交錯するケミストリーが、『もののけ姫』の音楽全体に深みと光を与えている。

 『交響組曲 もののけ姫』は、宮崎駿、久石譲という二人の巨匠の技量が円熟し、深いところで響き合う中で生まれた、魅力あふれる映画音楽、そして純粋音楽の傑作である。

 『アシタカせっ記』は、静かに始まる。「せっ記」とは、宮崎駿の造語で、人の耳から耳へと伝えられ、草に埋もれるようになりながらも今私たちの前にある物語のこと。音楽は、これから始まる叙事詩を予感させる期待とふくよかさに満ちている。タタリ神との戦いの中で呪いを受け、それでも自分の使命のために冒険に出るアシタカの困難に満ちた英雄の旅路のこれからを暗示するかのようだ。

 『TA・TA・RI・GAMI』の躍動するオーケストレーションは、イーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』を思わせる。人智を超えた巨大な力を象徴するかのような、原始的で感情の彩りの濃い音楽のうねりに身を任せているうちに、静謐な天上の気配をもかいま見る瞬間が訪れる。

 『旅立ち~西へ~』は、新たな物語世界の展開を期待させ、一気に視野を広げるモチーフに満ちている。これから始まる困難なアシタカの旅を見守り、祝福するかのようだ。弦楽器による印象的なパッセージが、心のひだを浸す慰めとなる。

 『もののけ姫』は、山犬と一緒に育った娘サンのやさしさ、強さといった性格を見事に表している。「もののけ姫」と呼ばれているサンの胸の奥にある揺れ動く心のありようや、やがてアシタカに心を開いていく、その豊かで繊細な感受性が描かれて聞く者の心を打つ。

 『シシ神の森』は、深く、しかし厳かな佇まいから始まり、やがて絡み合った生命の脈動を描いて、映画『もののけ姫』の重要なモティーフである豊かな照葉樹林のいわば一番「奥側」を音楽の力で昇華している。リヒャルト・ワグナーが、ベートーベンの第七交響曲を舞踏の「神格化」と述べたように、これは、日本の文化の古層を成す森林の精神の「神格化」であろう。

 『レクイエム~呪われた力~』は、曲半ばからの、グスタフ・マーラーにもこのようなパッセージがあったのではないかと思わせるような心ふるえる繊細な進行が魅力的である。色とりどりの珠が暗闇でしっとりと光っているような、そんな美しさがある。

 『黄泉の世界~生と死のアダージョ~』は、最初は打楽器がリズムカルに響く行進曲風でもあるけれども、次第にしっとりとした落ち着きを見せてくる。それまでの弾けるような聴覚体験があるからこそ、光の糸でなだらかに紡いだようなアダージョの曲想が心にしみる。曲は再び冒頭部に戻り、劇的な展開を予感させる。

  『アシタカとサン』は、これまでの物語の興奮と感動をやさしく受けとめて、静かな人生の流れの中に解き放ってくれる、そんなしとやかな気配に満ちている。ピアノの奏でる旋律を受けて、呼応するようにオーケストラが曲想を広げ、聴衆を忘れがたいフィナーレへと誘ってくれる。

 『交響組曲 もののけ姫』の全体を通して私たちが感じるのは、日本列島を覆う照葉樹林の中に息づく生物の多様性、さまざまなものが響きこだまする、その豊穣である。ヨーロッパで生まれたクラシック音楽は、遠く日本に旅をし、温帯の穏やかで豊かな自然に育まれた歴史、文化に出会い、久石譲の手を経なければ、このようなクオリア(質感)を得ることはできなかった。ここには、音楽の進化があり、人間の文化の成熟がある。

 宮崎駿の作画、そして久石譲の音楽を通して『もののけ姫』で描かれる、森のふくよかな広がり。その豊穣を表現するために用いられる音楽的な技法もまた、森と同じように重層的でなければならなかった。ここにある多様性は、森に象徴される自然の豊かさだけでなく、死生観、その中での「あちら側」の世界にも通じる奥行きを持っている。つまり、それは音楽という芸術の本来の守備範囲の全てにわたることになる。

 「映画音楽」という形式自体が、さまざまなスタイル、ジャンルの音楽を駆使することを求められる。すぐれた映画音楽の書き手は、さまざまな音楽の文法やモティーフに精通していなければならない。

 久石譲のすぐれた成果の一つ、ピアノのソロアルバム『Etude』に見る鍵盤に託された叙情性は、『交響組曲 もののけ姫』の中では、『アシタカとサン』の中のピアノのパッセージに生きている。久石の最高傑作の一つとの評価も高い『My Lost City』で見せたような、人々の心を掴んで離さないメロディーラインを生み出す作曲家の力は、例えば『アシタカせっ記』や『レクイエム~呪われた力~』の中で発揮されている。

 このアルバム『交響組曲 もののけ姫』の素晴らしい出来は、もちろん、オーケストラと指揮者の力を抜きにしては考えられない。

 演奏は、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団。1896年、アントニン・ドヴォルザークの指揮によって最初の演奏会を迎え、グスタフ・マーラーの交響曲第七番の世界初演をマーラー自身の指揮で行うなど、ヨーロッパ屈指の名門オーケストラである。

 指揮は、マリオ・クレメンス。小澤征爾と同様、ブザンソン国際指揮コンクールでデビューし、チェコを始め世界各国のオーケストラを指揮し、特に現代曲を得意としている。

 久石譲は、『アシタカせっ記』を、「スラヴ色の強い一流のオーケストラ」で聴いてみたいと思い、チェコ・フィルに白羽の矢を立てたのだという。プラハにある芸術家の家(ドヴォルザーク・ホール)で収録が行われた。その成果が、今ここにある。

 深い森の中で、「中心」から離れた「周縁」だからこそ育まれる豊かな文化、感受性を色濃く刻んだこのアルバムは、人類の文明がどこに向かおうとしているのか、混迷を深めるかに見えるこの時代だからこそ、繰り返し聴きたい。また、ひとりの人間としてどう生きたらいいのか、どこから自分の力は湧いてきてくれるのだろうと惑っている人にも、心からお薦めしたい。

 音楽の力、芸術の泉は「出会い」から始まる。宮崎駿と久石譲という二人の芸術家が出会って、この素晴らしい音楽に結実したように、現代を生きる多くの方に、このアルバムとの出会いが生きる力になるはずだ。

 『交響組曲 もののけ姫』に収められたすばらしい音の響きは、耳を傾ける者に「生きろ。」と静かに訴えかけている。