「小説現代」に掲載された原稿で、2009年に書かれたものです。

 

 

茂木健一郎

 

 すべての出会いの形式の中で、最高のものは「不意打ち」ではないかと思う。予想もしていないタイミングで訪れて、いきなり自我の深くまで入り込んでくる。そのような導きに恵まれたならば、人生は僥倖である。

 高校から大学にかけて、ヨーロッパの映画ばかり観ていた。私の青春はアンドレイ・タルコフスキーやルキノ・ヴィスコンティ、エンマルノ・オルミ、ビクトル・エリセなどの巨匠の映画によって彩られていたと言ってよい。

 名画座に行って、スクリーンで観賞する。映画という芸術の真髄に触れるため、せっせと通った。当時は文化というものは遠い外国の「本場」にあるものと思い込んでいた。極東の田舎、東京に住んでいることを本気で呪った。

 やがて私は大学院に進む。生物物理学の研究室で、タンパク質の立体構造を研究していたある日のこと。アルバイトをしている予備校の近くのレンタルビデオ屋にふらりと立ち寄った。

 何の気まぐれか、その日は滅多に行かない日本映画の棚の前に立った。並んだVHSのカセットのうち、『東京物語』という文字が浮かび上がった。

 以前から、小津安二郎や、『東京物語』の高名であることは知っていた。それでも、その認識が必ずしも素直な期待につながらなかった。その時点での私は、空虚なる駄作を「傑作!」と評して宣伝する日本のメディアのやり口に食傷していた。警戒心で一杯だったのだ。

 『東京物語』のカセットを手にとってレジに持っていく。年明けそうそうの休日。どうしてあの日だったのか。無意識のなせるわざとしか言いようがない。

 家に持ち帰って、さっそく見た。今までにない何かを経験していることだけはわかった。しかし、その芯が何なのか、わからなかった。すぐには、生涯をかけて対峙し続けることになる傑作に出会ったということがわからなかったのである。

 三月も半ばになって、なぜか『東京物語』のことが気になりだした。それで、件のビデオ屋に行って再びレンタルした。

 二度目の観賞。今度は熱病にかかった。一つひとつのシーンが脳裏から離れない。とりわけ、原節子さんの凜とした美しい演技。

 いよいよ激しい恋に落ちた。映画のことばかり考える。研究室にいても全く落ち着きがない。ついには東京駅から新幹線に乗ってしまった。『東京物語』を再見してから、二週間も経たない頃。映画の後半の舞台である尾道をとにかくひと目見ずにはいられない。そんな気持ちになったのである。

 映画のシーンに似た風景を求めて、街中を歩き回った。長年連れ添った妻が亡くなった朝、笠智衆が迎えに来た原節子に「ああ、きれいな夜明けだった。ああ、今日も暑うなるぞ。」ともらす。その名場面は一体どこなのかと、細い道をあちらこちらとさ迷った。

 千光寺公園に登ると、桜の花が満開だった。売店で求めた缶ビールを手に、尾道水道を見下ろした。水面に陽光が当たって、キラキラと光っている。船が行き交うその有り様は、映画のラストシーンを思い起こさせた。何かが、胸の中で着地した。

 衝動的旅をきっかけとして、私は尾道がすっかり好きになった。以来何度となく訪れ、魂の故郷とも言える場所となっている。

 忘れられないのは、それから数年後、英国に留学中に、ロンドンの映画館で『東京物語』を見たこと。

 「タイムアウト」で見つけて、ケンブリッジから電車に乗って出かけた。席に座り、場内が暗くなる。スクリーンに馴染みのあるシーンが映し出され、物語が進行していく。身を任せているうちに、目から涙があふれて止まらなくなった。

 近代科学に結実した経験主義。知性いっぱいのユーモア。そのような異国の文化を愛しつつ、私の心の中にはいつしか乾きが広がっていたのだろう。

 『東京物語』から受けた慈雨が魂を潤す。尾道からロンドンへ。最愛の映画との出会いが結実した。