人間は、様々な機器やシステムがうまく動くためにはどのような条件を整えればいいか、客観的かつ合理的に判断する能力を持っている。

 例えば、コンピュータが快適に動く環境がどのようなものか、それは判っている。

 計算速度の速いCPUを搭載していること。

 大容量のハードディスクを内蔵していること。

 インターネットと大容量の回線でつながっていること。

 安定した電源が供給されること。

 そのような条件さえ整えさえすれば、コンピュータは快適に機能してくれる。

 同じように、人間の幸福のために必要なファクターは、案外とはっきりしたものだ。

 

 例えば、大きな広々とした空間のある家。(最近、ある政治家は、日本人の一人あたりの居住面積を2倍にするという計画を発表したが、なかなかの慧眼といえるだろう。)

 家族や、心の通い合う友人たちや、あるいは恋人と過ごすゆったりとした時間。

 好きな時に、好きな場所にいける手段と余裕があること。

 将来の目標についてある程度の展望があり、その目標に向かって、少しづつでも進んでいるという感覚のあること。

 

 このように、人間が幸福であるための条件は、最大公約数的に書き出すことができる。条件がはっきりしているのであれば、後は、そのような条件を実現するための方策を「科学的」に考えれば良さそうだ。ちょうど、どのような環境を整えればコンピュータが快適に働くかがわかれば、後はそのような条件を整えることに努めればよいように、人間が人間が幸福であるための条件が判っているのならば、後は、そのような条件を整えるように努力すればよい。

 だが、人間の場合、なぜかことはそのように簡単にはいかない。なぜならば、私たちは、どんなに幸福な環境に置かれたとしても、次のような質問をしてしまうからだ。

 

 たとえ物質的に満たされていても、必ずしも幸せとは言えないのではないか。

 私はどこから来て、どこへ行こうとしているのか。

 人間は、死ぬとどこへいくのか?

 人生の究極の目的は何なのか?

 人間の行動規範を決定する、価値基準の究極の根拠は何なのか?

 

 残念ながら、このような質問には、機能主義的な、「割り切った」態度で答えることができない。このような質問は、結局のところ、処方箋が書けないことこそが特徴だからだ。

 ところで、このような質問をしてしまうのも、私たち人間が「心」を持っているからだ。

 なぜ、私たちは、人間の心だけ、特別なものだと思ってしまうのだろうか?

 宇宙の広大な広がりの中で、私たちは、自分の頭蓋骨の中の重さ1kgの塊が表現する内部世界、「私」が、特別なものだと思っている。だからこそ、「私」を取り囲む環境、「私」の社会の中の位置付け、「私」の心の状態について悩む。

 私のユダヤ人の友人は、かって、幸福とは、心の平和(peace of mind)をもつことだと言った。

 コンピュータの場合ならば、新しい、より性能のよい機種が出現すれば、古い機種は置き換えてしまえばよい。だが、「私」だけは、「私」の内部世界を支える頭蓋骨の中の脳みそだけは置き換えるわけにはいかない。それというのも、私たちは「心」を持っていて、広い世界の中で、自分の心だけが特別な存在であると確信しているからだ。

 このような、「私」、「私の心」に対するこだわりが、人間が幸福になるための条件を、とてつもなく難しいものにしている。

 時には、自分を取り巻く環境の条件を、客観的に眺めて見るものよい。そして、自分を取り巻く環境を、より良いものにするにはどうしたら良いか、客観的な観点から考えてみるのも良い。

 自分の心にこだわることによるわだかまり、フットワークの重さから自由になると、案外自分が幸福になるための客観的な条件、それを実現するためになすべきことが見えてくる。このような考え方は、いわば、自分自身を頭の上10メートルから眺めるようなものだ。「私の心」にこだわっていると、なかなか自分を取りまく客観的な状況が見えてこないのである。

 だが、一方で、私たちは、自分の心が特別であるということに対して、割り切れない思いを持っている。だからこそ、人間が幸福になるための処方箋は、それほど簡単に書くことができないのだ。

 「自分の心」という視点から離れて、人間一般の心に対するこだわりに目を転じると、心に対するこだわりこそが、芸術の出発点であることがわかる。科学技術が人間の生活をいかに便利にそして幸福にするかという問題意識から出発しているとすると、芸術は人間の心に対するこだわりから出発している。幸福は、芸術の目的とするところではないのだ。

 文学は、人間の心に対するこだわりから出発している。文学には、自分のまわりの環境は動かし難いものとみて、それを観察し、味わうところから出発する傾向がある。

 たとえば、ある男が、酒浸りで仕事をせず、カビで黒くなった畳のある安アパートにいて、あなたに金をせびって困っているとしよう。客観的、現実的に考えるのならば、その男とあなたが幸せになるためにすべきことは決まっている。なんとかその男が酒に依存することをやめさせ、とにかく何か仕事を見つけ、カビの生えた畳を張り替えるべきだ。そのようにした方が、あなたにとってもその男にとっても、最大公約数的な意味で幸福であることは疑いない。

 だが、文学的対象として興味深いのは、断然そのようにして更正してしまう前の男の生活であったりする。文学には、客観的に見れば無軌道で不幸な生活を、そのまま観察し、そこに一種の味わいを見いだすところがあるのだ。現代の作品で言えば、たとえば、元パンク・ロック歌手町田康の「夫婦茶碗」や「人間の屑」といった作品群。定職につかず、まわりの人々を様々なトラブルに巻き込んでいく主人公の生き方には、実に深い文学的味わいがある。このような味わいは、主人公が客観的合理性を追求して、幸福になるための条件を次々と実現していってしまうのでは、決して出てこないだろう。

 人は、誰でも幸福になりたいと言う。だが、人の心に去来する様々な陰、ひだを見るとき、人生が、幸福の条件を客観的、合理的に整備していくというので割り切れない側面を持っていることは確かだ。芸術は、そこのところをうまく掬いとる。人間自身にとっても、人間の心の本当のところは未解明のまま残っており、いくら科学技術や経済水準を向上させ、最大多数の最大幸福をい追求しても、人間の心には、必ず割り切れないところが残るのだ。

 

 

茂木健一郎『生きて死ぬ私』より