茂木健一郎

 

 価値観が多様化する時代。現代アートの世界では、さまざまな文脈でつくり出された表現が人々の支持と愛玩を競う。

 それでも、印象派の画家たちは私たちの中で大切な意味を占め続ける。時が流れても、人気は一向に落ちない。なぜなのだろう。

 印象派を代表する画家の一人、ピエール=オーギュスト・ルノワールの代表作『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』にその秘密が顕れている。パリはモンマルトルの酒場に集う人々。木が茂る。テーブルに椅子。ベンチ。光と風と。男たちが、女たちが、思い思いに着飾って酒を飲み、談笑する。ここには命がある。心臓の鼓動がある。ため息と、まなざしがある。

 かくも魅力的に、「生きる」ということをとらえる。鮮明なる「意識に直接与えられているもの」を通して、私たちの生きる何気ない一瞬を写す。このような作為は、「印象派」が大胆な筆遣いで自分たちの身の回りを活写して初めて可能になった。

 目の前の風景は、私たちがどのような精神状態でいるかということによって全く違って見える。気分が落ち込んでいれば沈んで見えるし、うれしい知らせがあった時には世界全体が祝福してくれているかのように心に映る。

 ルノワールの描く絵が私たちの心をとらえるのは、他の画家がやらなかったような方法で、人生の繊細なる美しさを気付かせてくれるからである。それは、断じて客観などではない。むしろ、徹底して主観である。実際にムーラン・ド・ラ・ギャレットに集った人たちが、ルノワールが描くように優美な姿をしていたわけではない。ルノワールは、現実を素敵な形で歪めてみせたのである。

 今のパリに行っても、ルノワールの柔らかな光はどこにも存在しないだろう。それは、画家の心の中だけにあった。写真を撮る時に照明が大切な役割を担うように、絵を描く時には心の内から照らす光源が深い意味を持つ。ルノワールは、生きるということの刻々を変える不思議な光源を胸に抱いていた。その類い希なる光による世界の「照らし出し」の果実を、私たちは慈しむ。

 印象派の画法はむろん、唯一のものではない。人間をとらえるにあたって静謐かつ精細に、その表情を描くという方法もある。あたかも、全てが仮想された神の視点に映るように。たとえば、ヨハネス・フェルメール。このデルフトの画家が描く人間も、ルノワールの描くのと寸分違わず同じ人間であり、同じように生き、愛し、苦しみ、安らう存在である。同じ実在が、かくも異なる表現に結実する。奇跡である。

 優れた絵とは、一つの世界観に他ならない。鮮烈なる画法が登場する度に、私たちは全く新しい世界を知る。見慣れた日常の様々が、物理的存在としてはそのままで、そっくり再創造される。事実において、世界が創り直される必要はない。ただ、私たちの内なる光源が更新されればよいのである。

 ルノワールのように人生のさまざまを感受することができる芸術家を生み出すとは、フランスは、そしてパリは何と愛らしい場所なのだろう。今でも、私たちは印象派が世界にもたらしたやさしい光の残照を求めて、「花の都」に赴く。街角の小さなカフェに座り、人々の何気ない会話をシャワーのように浴びる。ちょっとおめかしをしてレストランに出かける。私たちはそのようにして、ルノワールやモネやゴッホのなごりを探し求めている。彼らの絵が、パリを中心とした世界を変えてしまったのだ。

 

この文章は、『モナ・リザ』に並んだ少年: 西洋絵画の巨匠たち (小学館101ビジュアル新書) に収録されています。