坂本龍一さんの逝去の報に接し、その偉大な即席を偲び、心からご冥福をお祈りいたします。

桑原茂一さんの企画で実現した、対談をここに掲載し、その温かいお人柄を思い出すよすがとさせていただきます。

2005年に行われて、桑原茂一さん発行のフリーペーパー、Dictionaryに掲載されたものです。

 

<タイトル>

デジタルから共感へ。日本という国のクオリアは?

 

<リード>

未定

 

<小見出し>

デジタルとアートのあり方

 

坂本 デジタルとメディア、情報の記録の方法の関係はいつも考えてます。情報の記憶の仕方っていうのは、自分の商売というか、経済的なものに直結することでもありますし、つねに関心を持っている。ぼくは最初期からデジタル・メディアを使ってきたんだけど、それがけっこう仇にもなっていて、80年代に初めて使用していたデジタルのテープが、あっという間に廃れて再生できる機械がもうないとか…。なんかねえ、そのテープを再生できる機械が世界であと3台しかないとかいうんですよ。

茂木 3台って数えられるとこがすごいですよね(笑)。

坂本 でも、3台あるって聞いたのが、もう5年ぐらい前なんだよね(笑)。だから、実はぼくがいちばん信用しているミディアムって紙なんですよ。紙=パピルスは5000年は残りますからね。デジタルな情報も最終的にはなにかに記録しないと残らないわけで。

----Googleは最近、世界の本をデジタル化してネット上で誰でもアクセスできるようにしようという試みを始めました。

坂本 1500万冊の本をアーカイヴしようというプロジェクトですよね。全米書籍協会からのクレームでいま中断してますけど、でも、いずれは実現して、そういうデジタルにアーカイヴするっていう方向にみんな行くとは思います。以前は「グーテンベルグ計画」(註)なんていうのもありましたね。

----日本でも「青空文庫」(註)みたいにデジタルなメディアを活用したアーカイヴが進んでます。

坂本 最近、LOHAS(註)なんて言葉がありますけれど、持続性っていうことだったら、やっぱり紙かなっていうのが、現時点での結論ですね。音楽も譜面にして紙に書いておくのがいちばん長持ちしそう。でも、最近は、ぼくのも含めて譜面にできない音楽が増えてきていて、それをどうしようか、と。でも、音楽をデジタルにした場合の波形情報って、ゼロか1かの情報に置き換えたわけで、それは実は紙に譜面として記録した場合とあまり変わらない。デジタルにするっていうのはスコアにするっていうことと同じかな、って考えもないわけじゃないんです。どう記録しようが、その音楽が持つ実際の響きそのものは残らないのかなってあきらめもあったりしますね。

桑原 蓄音機の音が好きなんですよ。蓄音機の最初の頃は、みんな蓄音機の蝋菅の前に集まって録音していたわけですよね。

坂本 ああ、いいですねえ、蓄音機。いまでもレコーディングすることを「吹き込む」っていうのは、蓄音機時代の名残ですよね。それこそみんな、声とか音を「せーの」で吹き込んでいたんだから。

桑原 あの感じはなんなんでしょう。デジタルにはない100年前の人がそこにいるようなニュアンスが出ている。

坂本 デジタルでもやろうと思えばやれるんでしょうけど、それをやるには情報のうち、どこからどこまでが客観的な情報で、どこからどこまでが客観的ではない自分ならではのイマジネーションであるかを区別しなきゃいけない。その区別するという作業は非常に難しいと思う。

茂木 むかし、評論家の小林秀雄がすごく音のわるいSP盤の演奏を聴いてモーツァルトの音楽の批評をしていた。たしかに、SP盤の音っていうのはよくないんだけど、じゃあ、生のウィーン・フィルに接することのできるいまの評論家の評論とくらべて劣っているかといえば、そんなことはない。小林秀雄はSP盤の貧弱な音をイマジネーションで補って聴いて、評論していたけれど、そのイマジネーションの部分っていうのが、物理的に定義された情報のみであるデジタル情報には扱えない領域ですよね。坂本さんがおっしゃる「やっぱり紙がいい」っていうのはこのような文脈で考えると納得が行く。紙に載った情報は、デジタルでは定義できないイマジネーションの領域も志向し得る可能性が思うんですよ。マルベル堂で昔の原節子のブロマイドを買ったりしたことがあるんですけど、ブロマイドというメディアだから欲しいのであって、同じ写真がデジタルでWEB上にあっても萌えないだろうなと思う(笑)。坂本さんはデジタルな楽器で打ち込みという形での作曲も多いと思うんですけど、デジタルかそうじゃないかで、生み出される音楽も変わってくるのでしょうか?

坂本 打ち込みという概念そのものがもう変わってきてる。打ち込みっていうのは、以前はMIDI情報(註)を打ち込むっていうことだったんですけど、いまはもうMIDIはほとんど使わないでハード・ディスクに直接、音を録音しちゃって、そのファイルをどんどん切り刻んでいく。手法としてはミュージック・コンクレート(註)に近づいているのかなって。

茂木 音楽とデジタルの関係を考えたとき、ぼくにとって、いちばん興味深いのはサンプリングっていう技法なんですよ。つまり完全にコピーするわけでもないし、もともとオリジナルがあって、それに頼るって事は事実なんだけど、サンプリングって言い方をすることで、どこか気持ちが軽くなるって言うのかな、盗んでるっていうことともまた違うし。ぼくがいる科学の世界って、引用や参考文献のルールがとても厳しい世界ですが、サンプリングっていう概念は、がちがちの著作権の世界から軽々と離脱してる気がする。実際、われわれは生きてる中で常にサンプリングをしているわけですよね。しゃべる言葉にしたって他の人の喋ったこととかいろんなことをサンプリングして成り立ってる。だから、デジタルの音楽の作り方が、サンプリングっていうか、あの録音しちゃってそれを加工する方向にいってるって面白いなって思って。

坂本 そのひとつ手前の話になるんだけど、作曲って、メロディがあって和音があって、そしていろんな要素を加えてオーケストラ音楽のようにどんどん複雑になっていくんだけれども、そうなればなるほど、言語と同じように過去の資産の引用が増えていく。一人の音楽家がどんなにがんばって「これは俺の曲だ!」って主張しても、使ってる音階も和音も楽器もバッハの時代からほとんど変わってないわけだから。そういう過去の資産が文脈としてすでに存在していて、万人が共通に使えるアーカイヴとなっている。ぼくの作る音楽でも、95%はそういう文脈の上で成り立っていて、自分ならではのオリジナリティの部分は5%がいいとこですよね。バッハやモーツァルトといった歴史上の天才であってもそれは変わらないでしょう。そのあたり、いま、茂木さんの言った言語もサンプリングで成り立っている、語彙も文法も、いま自分で考えてると思っている内容のほとんどもサンプリングでしょう。

茂木 脳の使い方としては、直接に何かを見ながらそれをコピーするっていうのと、過去に経験したことを、外部の情報に頼らずに脳の内部からその場で再現するってちょっと意味が違っていて、再現するって行為自体は、もはやオリジナルに近いものとみなしていいんじゃないかって気がするんですよね。言葉って、結局は殆ど全部過去に誰かがしゃべった単語から成り立っています。だけど「桑原さんがこういうこと言ってたよ」って意識的に引用する場合じゃなければ、自分の肉体でしゃべってるって段階で、そこに生命作用としてのオリジナル性が立ち上がってるっていう思いもあるんです。

坂本 オリジナリティって、すごく難しい。人間の営為のほとんどは引用であるわけで、根本的な意味でのオリジナリティなんていうのはありえないという気もする。

茂木 よく養老孟司さんが、本当にオリジナルな人は精神病院に入ってるっていうのと同じですよね(笑)。

坂本 そうそう(笑)。人間が社会的に生きていくということは、目に見えない規範や様式にそって、その囲いの中で与えられた役割を生きていくってことですからね。

茂木 人間、若いときっていうのは生意気だから、自分はこれまでにないオリジナルなスタイルでいこうって思うじゃないですか。そしてそのうち、どんなに前衛を気取っても、結局は過去の蓄積、アーカイヴの上で躍ってるだけだと気がつく。でも、ぼくはそれでも、いいんだと思うんです。せっかく若いんだから、よし、お前のオリジナルってものをがんがん出していけ! そうハッパをかける。そして出てくるものは過去の延長かもしれないけど、気概としてはそれぐらい、新しいものをゼロから作ってやろうっていう気持ちがないとだめでしょう。

坂本 ぼくも、17〜18ぐらいのときに、真剣に悩みましたよ。どうすれば自分だけのオリジナルな表現ができるんだろうって。たとえば、ピアノで表現するにしても、88鍵を使って出せる音色、メロディ、和音というのは、どうしても西洋音楽、それはモーツァルトでもスティーブ・ライヒでもいいんだけど、そこからは逃れられない。じゃあ、西洋音階に属していないもの、第三世界の音楽だったり、シンセサイザーを使った現代音楽だったり、そういう西洋音階の伝統から切れたまったく新しい音色を見つけていくことに夢中になったんですよ。そしてそれがそのままいまに至ってるって感じですね。

茂木 たしかに西洋音楽って行き詰まってる感がすごくありますよね。

坂本 とっくに行き詰まってるんですよ。1920年代、いや、20世紀の初頭にはもう完全に手詰まりの状態になっていて、それでその頃にアーノルド・シェーンベルグ(註)たちが一回、解体しようと試みた。現代音楽の誕生ですよね。ちょうど、哲学の世界ではフッサール(註)が同じようなことを試みた時代。20世紀っていうのは解体の時代だったのかもしれないけど、ぼくが大学に入った1970年頃は、まさに何世紀も連綿と続いてきた西洋音楽のデッド・エンドの時期だったんです。スティーヴ・ライヒ(註)らがミニマリズム、ようするに音がゼロに近い状態の音楽を作ったり、ジョン・ケージ(註)がそれこそ無音の音楽を作ったり、音楽を極限までミニマムなものにして、それ以上はもうなにもないとこまで来ちゃった。西洋音楽の終わりなんです。それ以降もたくさんの音楽は書かれてますけど、どれも過去の焼き直しや組み合わせにすぎない。建築の世界のポストモダンなんかもそうなんですけど、いわゆる線としての歴史的な発展は止まっちゃったから、あとはもう好きなところを持ってきて好きな組み合わせでいいんだっていう、文脈からはずれた所で自由に遊戯するんだみたいなことですけど、音楽もそれと同じになったんですよ。

茂木 坂本さんの音楽を聴いていると、西洋音楽的なアプローチ、譜面で表せる世界というのがそうとうな制約になっていることを見つめた上で、そこから自由になろうっていう意思をすごく感じるんですよ。人間が感じる音の豊かさって、もっともっと広くて深いだろうっていうメッセージが込められている気がする。

坂本 たとえばヨーロッパっていうのは、キリスト教の歴史があって音楽も理詰めの歴史で進んできたんです。西洋音楽のデッド・エンドというのはその理詰めの発展が止まっちゃったということなんですけど、そういう理詰めの発展とは別に、音楽の豊かさというものはいつも人間の社会に存在しているし、人間が存在する限り「そこにいつもあるもの」なんですよ。でも、その豊かさのすごさや深さを語るロジカルな言葉ってまだないんです。いまの音響系とかの人が感じているのは、きっとその深さやすごさなんだと思いますね。

 

<小見出し>

アーティストのシグネチャー

 

茂木 坂本さんの一連の作品を聴いていて思うのは、坂本さんの音楽にはつねに独特の「クオリア」があるっていうことなんです。「クオリア」というのはぼくの専門で、人間が意識の中で感じる様々な「質感」っていうことなんですけど、坂本さんの音楽って2小節ぐらいで、「あっ、これは坂本さんの音楽だ!」ってわかるんですよ。それはある種のアジアっぽさだったり、なんというか、個人的には「風」を感じるんですよね。それはきっと譜面上で「これ」ってはっきりと指摘できるものじゃないし、言葉にしにくいんだけど、ひとつのシグネチャー(署名)としてはっきりと存在している。

坂本 なんだろう、シンガーの人たちだと、彼なり彼女の声とか節回しがすでにもうシグネチャーじゃないですか。ぼくの場合はきっと音と音の組み合わせにそういうシグネチャーが浮かび上がるんだろうと思いますけど。きっとブライアン・イーノ(註)のシグネチャーだと、もっとはっきりとわかると思うんですよ。彼は頭のいい人だから、ぼくなんかよりもっと自覚的に自分のシグネチャーを音楽の中に確立しようとして成功している。もう、ブランドと同じですよね。ぼくもあんなに際立ったシグネチャーを持てたらいいなと思うんですけど、どうも難しい(笑)。

茂木 坂本さんの場合は、もうちょっとゆるやかですよね。東南アジアあたりの土地を散歩している時に、ふっと風が吹いているぐらいの気持ちよさを感じます。でも、ぼくはシグネチャーとしてはそれぐらいが理想的なんじゃないかという思いもあって、いま、例えば現代美術の世界で大問題になっていると思ってるんですけど、現在、グローバルな美術市場の中で、いったんあるシグネチャーを立てて成功しちゃうと、それをずっとやっていかなきゃ許されなくなるし、売れないという構造がある。

坂本 変えても許された、許容されたのはピカソだけです。現代アートに限らず、美術の世界って画廊や美術館ががっちりとスクラムを組んだ狭い世界だから厳しいですよね。それにくらべると音楽はまだ、もうちょっと顔の見えない消費者が相手の世界だから緩いといえば緩いんだけど、でも、まあ、似ている部分もあるかな。たとえば山下達郎は30年間、自分の世界を変えてないでしょう。それは消費者としては安心できますよね。達郎のコーナーに行けば、いつでも同じテイストの作品が買えるっていう。それがねえ、坂本のコーナーに行ったら1作ごとにちがうから、困っちゃうよね(笑)。

茂木 坂本さんのシグネチャーって、なんというか貪欲さがない、もっと愛に満ちたシグネチャーという気がするんですよ。アングロサクソン的な、自分の欲求と欲望を満たすためにアグレッシヴに「すべてをかっさらうぞ!」的な強欲さがない。表現や欲求がすうっと自分の内側に戻ってくるような音楽ですよね。

坂本 ああ、それで「風」みたいだっていう…。ヴェルナルド・ヴェルトリッチ監督(註)の『シェルタリング・スカイ』の音楽を作った時なんですけど、テーマ曲を作ってニューヨークに住んでる民族音楽研究家の友達に聴かせたら、すごく日本的だって言われたんですよ。「deeply Japanese」って。ぼく本人には日本的だなんてつもりはまったくなくて。

茂木 そうやって、外からの目で勝手に決め付けられちゃうことってありますよね。ぼくの知り合いの女性アーティストも、外国人から「君は日本の女性として何を表現したかったのか」って言われて、ものすごく激怒してたんですよ。その人個人ではなく、「日本の女性」としてっていうくくられ方に無神経さを感じていた。ぼくのいる科学の世界ですらそうなんです。よほどのブレイク・スルーな研究でもなければ、日本、すなわち非西洋から来た学者の研究という色眼鏡で見られる。だからもう、われわれも開き直るしかなくて、それこそ桑原さんがYMOと一緒にやった「ジャパニーズ・ジェントルメン! スタンダップ・プリーズ!」(註)っていう、あれぐらいの開き直りがないとダメだと思う(笑)。どうせ日本人はああ見られてるんだから、そこを逆手にとって、日本人であることを隠さないで、むしろ日本的なものをユニヴァーサルな言葉で語る訓練をすべきだと思うんですよ。

坂本 音楽の場合、ジャズ、クラシックやクラブ・ミュージックだと世界の誰でも同じ音楽言語で作れるから日本人でもどんどん世界に出て行けるんですけど、ポップスの世界は厳しいですね、とくにアメリカは。ポップスって、非常に国境に縛られたアートなんです。ビルボードのチャートを見てみると見事にアメリカ人と、せいぜいイギリス人のアーティストしかいない。日本人はもちろん、イタリア人とかフランス人ですらいない。日本人がビルボードに入ること、あるいはiTunes ミュージック・ストアのアメリカ版で売れるっていうのは非常に難しいんです。クエンティン・タランティーノの『キル・ビル』のサントラに使われた布袋寅泰君の曲がiTunes ミュージック・ストアで売れたり、コーネリアスみたいな言葉の要素が少ない音楽は成功したりもしますけど、いざヴォーカルが入って、顔も見せなきゃいけないポップスのどまんなかの世界だと、宇多田ひかるさんでも厳しい。あんなにネイティヴな発音の人でも、アジア人的なルックスだと受け入れてもらえない。

茂木 アメリカの『ピープル』誌(註)なんかを見てると、なにかアメリカ人にとってのセレブのストライク・ゾーンというのがありますよね。あそこに入り込むのは難しいですよね。

桑原 それなりにアメリカで受け入れられているように見えるイギリスのポップスも、イギリス人の友人に言わせると「ゲイ・ポップやヘンタイっぽいメイクをしてないとアメリカではダメだ」って冗談で言ってましたけど(笑)。

坂本 そう考えるとビートルズの成功って大変なことだよね! あの成功の収め方は過激ですよ。彼らの場合、アメリカのロックやR&Bに憧れて音楽を始めたから、詞や発音の仕方がアメリカ英語流だったりして、それも関係あるのかもしれないけど…。アメリカって、ほんとに保守的な国なんですよ。いま、ぼくらや、ヨーロッパのたくさんの連中がやってる音響系、エレクトロニカな音楽って、アメリカだとまだ全然ひろがってなかったりしますもん。

茂木 アメリカの価値観って、人間の欲望がすごくむき出しのままにあって、とくにポップスの世界だと、そういう大衆のむき出しの欲望を充足させるゴージャスさっていうのがストライク・ゾーンとなるじゃないですか。そこに坂本さんの音楽のような、繊細でアーティスティックなものはなじめないのかもしれませんね。

 

<小見出し>

アメリカ、そして日本という国

 

茂木 アメリカって、本当にいま保守的になってますよね。FOXテレビ(註)のニュースの人気ぶりとか、まさにそれを現していると思う。

坂本 アメリカって、いま、どんどん低学歴の社会になりつつあるんですよ。識字率も低い。それはもう、政府の政策なんです。貧しい若者をどんどん大量生産して、そういう子たちって、就職先が軍隊ぐらいしかないんです。それでイラクに送られて、ヘビメタを大音量でかけながらイラク人を殺してる。そして、殺すための技術を日々、高めてるでしょう。政治もメディアも音楽もテクノロジーもアメリカでは一体となって悲しい縮図を作り上げてるんですよね。

茂木 テクノロジーの面では、たとえばロボットに対するとらえかたも日本とアメリカじゃ、全然ちがいますよね。日本人が夢見るロボットはアトムみたいなヒューマナイズされた無害なものだけど、アメリカじゃ完全な軍事用で、彼ら、家庭用ロボットなんて興味ないでしょ。

坂本 ないでしょうね。戦闘用ロボットだってすでに実用化寸前だし、この何年か研究されているウェラブル・コンピューターも、軍事用。キーボード・レスで、無線LANで指揮官と一体化したコンピュータを身に着けた前線の兵士が、遠くにいる指揮官の命令のもと、小型無人偵察機なんかの情報を即座に共有して戦闘を行うっていう、まさにロボット兵的な研究。こういう、理念のないテクノロジーだけがどんどん発達していくっていうのは、ものすごい退廃だと思うんだけど、やっぱりそのあたりはすべて一貫していて、アメリカ映画も音楽もテクノロジー、技術だけが発達し続けてる。たとえば音楽だと、技術はすごいけど中身は何もないっていうウィントン・マルサリスみたいな(笑)。すごいテクなんですよ、でも、中にはなにもない、もぬけの殻の音楽。

茂木 そうかあ、やっぱりみんなつながってるんだ。FOXテレビもブッシュもポップスも軍産複合体も。だとすると、逆に坂本さんがアメリカのポップスの牙城を崩せると、それがゆくゆくは世界平和に貢献できるんじゃないかっていう(笑)。

坂本 そういえば、最近、スピルバーグが『宇宙戦争』って映画を作ったじゃないですか。

茂木 おもしろく観ました。

坂本 ね。あれって、スピルバーグがそうとうな覚悟で作った映画だと思うんですよ。あれは、トム・クルーズたちがいるアメリカをイラク、米軍を宇宙人っていう形に置き換えた反戦映画でしょう。宇宙人(米軍)が圧倒的な火力とテクノロジーでアメリカ(イラク)を襲い、トム・クルーズらアメリカ人(イラク人)はまったくの無力。

茂木 うん、そこがすごくおもしろかった。まったくなすすべがなく虐殺されていきますよね、人間が。

坂本 しかも、劇中、生き残って宇宙人に抵抗を続けるアメリカ人が、「侵略者は必ず打ち破られるんだ!」って宣言するじゃないですか。その役を演じてるのがイラク戦争反対をアピールした俳優のティム・ロビンスなんですね。彼にあえてあのセリフを言わせている。あの映画はアメリカに対する強烈な皮肉になってる。

茂木 保守化している一方で、メジャーな作品にそういう主張をこめられるというところが、まだアメリカに残る健全さかもしれない。

坂本 でも、FOXテレビを観ているような人たちには、やっぱり総スカンで、大ヒットしなかったんだよねえ。アメリカ国民の半分以上に嫌われて、実は『スターウォーズ』もそうなんですよ。かなりブッシュに対する皮肉がこめられている。敵の親玉のシスの暗黒卿が「自分に味方しないものはすべて敵だ!」なんて叫んでて、まさにブッシュの戯画化ですよね。

茂木 あの映画はすごいですよね。最後、ダース・ヴェイダーになるアナキン・スカイウォーカーが劫火の中でのたうちまわって全身火膨れになって復讐を叫ぶ。ああいう感情をアメリカ人ってそもそも無意識の中に根深く持ってるんじゃないかと思うんですよ。

坂本 ぼくなんかは、だいたいなぜアナキンが暗黒面に行くのかすら納得できない。

茂木 たとえば日本で大ヒットした『千と千尋の神隠し』とか、ああいう映画に流れている心と全くちがう。『千と千尋』では顔なしっていう得体の知れないよそ者が出てきて、それに対して主人公の千尋は優しいっていうか、受け入れるじゃないですか。ああいうシーン、他者との共存って、アメリカのメジャーな映画ではあんまり見たことがない。やっぱりサイコですよ、アメリカ人って。彼らは民族全体が一種のPTSDなのかな。ネイティヴ・アメリカンを大量虐殺したっていう負い目、トラウマがある。

坂本 ああ。岸田秀(註)理論ですね。以前、日本から来た高校生の留学生が撃たれた(註)じゃないですか。あれも根は同じですね。「いつか先住民から復讐される」っていう強迫観念があるんですね。

茂木 そのような文化の現状に対して日本人は、娯楽映画は娯楽映画としてしか鑑賞しない傾向がありますよね。そもそもお気楽に観られる映画という文法でしか宣伝もされないし、まともな批評も少ない。なんだかティーン・エイジャーっぽい精神年齢のあり方だなって思いますよ。

坂本 まさにマッカーサーが日本に上陸して「日本人は12歳の子供だ」(註)って言った頃と変わりない。大人じゃない国だって。で、占領軍は日本をもう少しだけ大人の国にしようと民主主義を教育したり…。でも、一人前の大人にはしなかったんだよね、そうすると思い通りに動かせないから。

茂木 それは見事に成功してますよね。

坂本 でしょ。今度の郵政民営化にしても、結局は、日本人が戦後やっとの思いで貯めてきた350兆円の郵便貯金を、金融マーケットに放り出して、パーッとアメリカやヨーロッパの金融機関がさらっていくのを目の前にしているような感じがしますけどね。もう何年もアメリカから要求されてきたことを、ついに実現させようとしている。靖国問題とか、竹島問題とか、日本政府にはワシントンからかなり細かいところまで「要望」がきてると思います。大人の国とは言えない。

茂木 そういうことって、いま坂本さんNYとかに住んでてリアル、切実に感じることなんですか?

坂本 切実に感じますね。いつから、こういう子供の国になったんだろうってよく思うんですよ。幕末から明治維新にかけて、日本に多くの外国人が来て、いろんな記録を残してるでしょ。その頃海を越えて日本に来るような人は商人であれ学者であれ、世界中を広く見てきた人なわけです。そうした人たちが当時の日本の社会や人間をすごく尊敬の目で見てる。アジアの多くの国が欧米の植民地にされた中で、日本が独立を保てたっていうのは、日本に対する尊敬の念もあったからだと思うんです。

茂木 それは絶対にありましたね。

坂本 ぼく、『戦場のメリークリスマス』(註)っていう映画に出て、音楽も作ったじゃないですか。撮影後に東京でパーティーがあって、そこに原作者のサー・ヴァン・デル・ポストと親交のあった明治時代の日本海軍の軍艦の艦長をしていたっていうおじいさんがゲストで来てたんですね。海軍の軍服を着て。すごく背はちっちゃいんだけれども、矍鑠として姿勢もよくて…。それでなんというか、たった2世代前の日本人だけど、ぼくらとはもう人種がちがうっていう感じがした。小野田少尉(註)が出てきたときも自分たちとはちがう人種だって印象を持ったけど、それよりさらに隔絶した感じ。彼がなにを考えているかとか、ちょっと想像できない。

茂木 なるほど。現代の日本人には、ちょっと見られないタイプの方ですね。

坂本 いろんな外国人が来ても、日本を植民地にして阿片を売りつけようとか、この国に対して下手なことできないっていう思いを抱かせた、そういう時代の日本人の面影をそのおじいちゃんに感じたんですね。いまの自分たちとはちがう信念の大系があるっていう…。

茂木 日本もある時代までは大人の国だったんですよね。坂本さんがいま住んでいるニューヨークは、いま世界でもっとも大人が集まっている街だなって思うんですよ。そこに9.11のテロが起こったというのは一つのパラドックスで、ある意味では非常に象徴的なことだと感じましたね。テキサスでもワシントンもでもなく、ニューヨークだっていうことに。

坂本 ニューヨークが中心の金融関係にユダヤ人が多いからでしょうね。これはあくまで噂なんだけど、当時、世界貿易センタービル内に勤めていた人の半分ぐらいがユダヤ系なんですけど、9.11の当日はほとんどのユダヤ系の人は「たまたま」欠勤していたっていう…。「きょうは行くな」「理由は訊くな」で、実際、ユダヤ系で亡くなった人は少なかったわけですし…。どこまでホントかわかりませんよ(笑)。でもうイスラエルのモサドが介入してたとか、いろんな説や噂はある。

 

<小見出し>

アンチを唱えざるを得ないアーティストたち

 

----ちょっと前までは権力に対するアンチを唱える役目は野党の政治家だったり、宗教家だったりしましたよね。それがいまはアーティスト、クリエイターの役割になってませんか。アメリカの大統領候補よりもU2のボノのメッセージのほうがより多くの人に受け入れられる、みたいな。

坂本 確実にそうなってますね。というのも、これはアメリカも日本も同じ状況なんだけど、野党も与党も変わりないじゃないですか。去年、ブッシュの対抗馬だった民主党のケリーは、ベトナム戦争では自分のほうが活躍した、自分のほうが真の保守だって、つまり右だって宣言してたし、日本の民主党だって自民党よりもタカ派な議員がいたりする。恐ろしい状況ですよ。アーティストが、そういう状況にアンチを唱えざるを得なくなってるんですね。

桑原 最近、サルトルとボーボワール(註)の恋愛に関する本を読んでて、とてもおもしろかったんですけど、あの時代の知識人って、その言葉や思想をとても強く人々から求められているじゃないですか。それはあの人たちの言葉や思想というのが、とてもよくその時代の空気を表しているからなんじゃないかなと思うんですが、私は教授の音楽にもそれと似たものを感じていて、この時代を生きていくことに関して考えざるを得ないことを非常にうまく音にして伝えていると感じる。教授の音楽をつねに聴いていないとまずいぞ、っていう気すらするんです。一方、茂木さんに関しても、キリストのようだ、というと大げさな比喩になってしまうんだけど、この人のそばにいたい、その言葉を聞きたいっていう気持ちがすごく強い。それは宗教的なものというよりも、もっとそれ以前の感情ですね。この人のそばで言動を見聞きすると、とんでもなくすごいことを体験できるんんじゃないか! っていう、わくわくした心になれる。

坂本 ぼくは、ダライ・ラマ(註)に会ったときにそういう気持ちになったなあ。なんか、いいの。側にいると。彼の言っていることって、特別に目新しいことじゃないけど、側にいると光が感じられるんですよね。こういうこと、あんまり言わないんですけど(笑)。でも、あのとき、ああ、きっとイエス・キリストっていうのも、こういう人だったんだろうなあって思ったんですよ。当時のイスラエルの社会の中で、汚い格好をしたイエスに、でも大勢の人が仕事も家族も捨ててついて行っちゃうっていうのは、きっとこういう光を感じたからだなんだろうな、って。つい、側にいたい、ついて行きたくなるっていう人がいるんだなってダライ・ラマと会って、初めてわかった。そのことをデヴッド・シルヴィアン(註)に話したら「なんでそのままついて行かなかったんだ?」で真剣に訊かれて、そうか、ついて行けばよかった! なんて思ってますけど(笑)。

茂木 そこでそのままついて行けば、ビートルズがインドに行ってがらっと音楽が変わっちゃったように、坂本さんの音楽もまるっきり変わっちゃったかもしれないんですね(笑)。

坂本 ま、ぼくの場合、いつもまるっきり変わった音楽になってるんで、気づいてもらえないかもしれないですけど(笑)。

 

<プロフィール>

 

坂本龍一

 

1952年東京生まれ。東京芸術大学大学院卒。スタジオ・ミュージシャンとしての数々の活動を経て、1978年にアルバム「千のナイフ」でデビュー、同時に「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」に参加、1983年には映画「戦場のメリークリスマス」に主演するとともにサントラ音楽を担当し、英国アカデミー賞音楽賞を受賞。その後映画「ラスト・エンペラー」(1987年公開)などの音楽を担当し、1988年にアカデミー賞作曲賞他多数受賞、続く1989年にはグラミー賞映画・テレビ音楽賞を受賞。その後も世界的に幅広く活動中。音楽活動のほか、アーティスト・パワー、CODEなど様々なプロジェクトに参加し、つねに世の中に警鐘を鳴らしている。最新アルバムは『05』(ワーナー・ミュージック・写真)。

http://www.sitesakamoto.com/

 

茂木健一郎

 

1962年東京都生まれ。脳科学者。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピューターサイエンス研究所シニアリサーチャーに。東京工業大学大学院客員助教授、東京芸術大学非常勤講師。「クオリア」「アハ!体験」など、つねに刺激的なキーワードを用いて科学や文学など、ジャンルを超越したさまざまな分野で活躍中。主な著書に『脳とクオリア』『意識とはなにか』など多数。最新刊は『「脳」 整理法』(筑摩書房・写真)。2005年8月、『脳と仮想』(新潮社)で、小林秀雄賞を受賞。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/