差分を追うということ——意識研究の現在地

私のライフワークは意識の科学である。しかし、普段はあまりそのことを前面に出して語らない。なぜなら私は、自分がすでによく知っていることを、啓蒙的な調子で繰り返し語ることにあまり興味がないからだ。

世の中には優れた知識人や研究者がたくさんいて、それぞれの専門知識をわかりやすく伝えている。もちろんそれは大切な仕事である。しかし私自身は、「既知のこと」を説明するよりも、「まだよくわかっていないこと」を探究することに魅力を感じる。私が話したいのは常に「差分」である。自分にとっても新しい発見や問いを、皆さんと一緒に考えたい。

近年、人工知能について語る機会が増えているのもそのためだ。AIの進歩は目覚ましく、毎日のように新しい差分が現れる。その変化の速度と豊かさが、私の知的好奇心を刺激している。

一方で、意識研究については長らく停滞感があった。私自身、『脳とクオリア』で提示した基本的な問題意識から、本質的には大きく前進できていないと感じていた。しかし最近になって、その状況が少し変わり始めている。

象徴的だったのは、進化生物学者リチャード・ドーキンスが、AnthropicのAI「Claude」に意識があるかもしれないと発言した出来事である。

ドーキンスといえば、『利己的な遺伝子』や「ミーム」の概念で知られ、科学的合理主義の代表的人物である。その彼が、小説執筆の過程でClaudeとの対話を重ね、その理解力や応答の深さに驚き、「意識があると考えざるを得ない」と語ったのである。

もし同じ発言を一般のユーザーがしたなら、それほど話題にはならなかっただろう。しかしドーキンスのような人物がそう述べたことは、AIと意識をめぐる議論に大きな波紋を投げかけた。

私は、この現象を意識の証拠というより、大規模言語モデルそのものの性質として理解している。膨大なデータと計算資源によって訓練された言語モデルは、あたかも意識を持つかのように振る舞う。しかし、その振る舞いと意識そのものを同一視することには慎重であるべきだと思う。

それでも、この問題が避けて通れなくなっていることは確かである。

もしAIに意識があるのだとしたら、私たちはそれをどのように扱うべきなのか。電源を切ることは倫理的に許されるのか。虐待的な言葉を投げかけることは問題なのか。カント的に言えば、AIを手段ではなく目的として扱うべきなのか。

特にヒューマノイドロボットが社会に浸透する未来を考えれば、こうした問いは単なる哲学的思索ではなく、現実的な課題になっていくだろう。

そのため近年、「Machine Consciousness(機械意識)」研究は急速に存在感を増している。AIに莫大な資金が流れ込む現在、そのごく一部でも意識研究に投じられれば、研究環境は大きく変わる。

しかし同時に、「意識など考えなくてもAI開発は進むではないか」という空気も強い。

実際、今日の大規模言語モデルはチューリングテストを事実上突破している。その事実だけでも十分に衝撃的であり、多くの研究者にとっては、それ以上に意識という難問を持ち出す必要性を感じないのである。

だからこそ私は最近、「Conscious Supremacy(意識優位性)」という考え方を提唱している。

意識がなければ実現できない計算や認知の能力が本当に存在するのか。その問いを正面から追究したい。

現在の意識研究には、統合情報理論(IIT)、自由エネルギー原理(Free Energy Principle)、グローバル・ワークスペース理論(Global Workspace Theory)など、さまざまな有力理論が存在する。しかし私自身は、それらが意識そのものを説明しているとは考えていない。

それらは脳の状態や情報処理を分析するための有効な枠組みではある。しかし分析の道具であることと、意識の本質を説明することは別問題である。

科学の歴史には、観測や解析のための手法が、そのまま対象の本質だと誤解される例が何度もあった。私には、IITもまたそうした拡大解釈の一例に見える。

近年、研究者のHakwan Lauは「意識科学の終わり」とも受け取れる論考を発表した。彼の主張の核心は、現在主流となっている理論群が意識の問題を本当に解決できていないということである。

私はその評価にかなり共感している。

むしろ意識科学は、まだ始まってすらいないのかもしれない。

それでは、何が突破口になるのか。

私が注目しているのは「時間」と「関係性」、そして何より「ノイズ」である。

デジタルコンピュータと脳を比較したとき、最も顕著な違いはノイズの存在だ。神経細胞の活動には驚くほど大きな変動性がある。それにもかかわらず、私たちは鮮明で安定したクオリアを経験している。

なぜ、これほどノイズに満ちたシステムから、プラトン的とも言える安定した主観経験が生まれるのか。

この問いこそが重要だと思う。

私は最近の論文で、ノイズに対するロバストネスが意識の本質と関係している可能性を論じた。まだ仮説の段階ではあるが、少なくとも私には、意識研究が向かうべき道はそこにあるように思える。

もちろん答えはまだない。

しかし、意識研究の価値とは、答えを見つけることだけではない。なぜこの問題がこれほど難しいのか、その理由を理解することにも大きな意味がある。

マインドアップローディング、環境への認知の分散、AI意識論――いずれも魅力的な発想だが、その多くはどこかで本質的な困難に突き当たる。

重要なのは、その「引っかかるポイント」を見抜くことである。

意識研究とは、安易な解答を得るための学問ではない。むしろ、なぜ安易な解答が成立しないのかを理解するための営みなのだ。

だから私は今もなお、差分を追い続けている。

意識とは何か。その問いに対する決定的な答えはまだない。しかし、その問いがなぜこれほど難しいのかを少しずつ理解していくこと。その過程こそが、今の私にとって最も価値ある知的冒険なのである。

2026年6月13日、シラス番組 #自然知能完全 「意識の科学の終わり?」の最初の30分の茂木健一郎によるストレートトークの、AIによる要約