[紫式部] コラム11:紫式部が越前武生に下向した時のルート | コンデジ片手に出かけよう

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私の旅の思い出を紹介します。


大河ドラマ「光る君へ」の第21回 (2024/5/26)の放送より「越前編」が開始、紫式部にとっては人生の中で唯一 都を離れて生活した時期。彼女の人生に大きな景況を与えらと思われるので、ドラマ展開が楽しみです。
※Top写真は、福井県越前市武生にある「紫ゆかりの館」に展示されている越前和紙で作られた越前市・紫ゆかりの館にある「下向行列」



996年(長徳2年)、父・藤原為時が越前守に任ぜられたため、紫式部は京から父とともに越前国へ下ります。そして、998年(長徳4年)の春ごろに父親を残して単身で都に帰っています。越前市武生にある「紫ゆかりの館」には、紫式部がたどった簡単なルート図が展示されています。



都から逢坂の関を越え、琵琶湖畔(現在の滋賀県大津市)に到着した紫式部一行は、琵琶湖西岸を船で進んだ様子です。途中にある白鬚神社には紫式部が読んだとされる和歌の碑もあります。
<和歌> 三尾の海に 網引く民の てまもなく 立居につけて 都恋しも



紫式部一行が再び上陸したのは琵琶湖北端の「塩津の浜」


そして「塩津神社」で越前への道中祈願をしたといわれています。



また塩津宿(宿場町)近くには、紫式部が詠んだ和歌の歌碑があります。
<和歌>知りぬらむ 行き来にならす 塩津山 世にふる道は からきものとは



琵琶湖を北に進み塩津浜した後ですが、一行は越前武生に直接向かったのではなく、若狭敦賀を訪問しています。訪れた理由としては、その当時には宋の商人が宿泊してためといわれています。そして、紫式部は敦賀滞在中に気比神社(けひじんじゃ)を訪れたかもしれませんね。



若狭敦賀に3泊くらいした後に、一行は古くからの官道である木ノ芽峠を越え、国府のある武生へ向かったとされています。
※写真は、越前市武生にある「紫式部公園」の紫式部像